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シリーズ 農政は「生産者優先・消費者保護軽視」だったのか

農民収奪装置としての食管制度
―サーベル供出・ジープ供出―


梶井功 東京農工大学名誉教授


梶井功氏
梶井功氏

 BSE問題検討委員会報告によると、“日本の法律、制度、行政組織は、旧態依然たる食糧難時代の生産者優先、消費者保護軽視の体質を色濃く残し・・・・”ているそうだから、まずは“食糧難時代”の“法律、制度、行政組織”が“生産者優先、消費者保護軽視”だったのかどうか、の吟味から始めることにしたい。
 “食糧難時代”という言葉で、前記委員会の論者が何時ごろのことをいっているのか定かではないが、常識的に考えて、戦時経済下、そして敗戦後の数年というのが妥当なところだろう。そしてその時代の代表的な農業関係の法律ということになると、食糧管理法をあげるのが大方の異論のないところであろう。
 その食糧管理法は、いうところの食糧難時代に“生産者優先、消費者保護軽視”政策の根拠法規だったのかどうか。食糧農産物を生産し、食糧農産物を所有している生産者から、否応なしに“命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ生産シタル米穀ニシテ命令ノ定ムルモノヲ政府ニ売渡”させる法律が“生産者優先”であり得るはずがないことは、“サーベル供出”とか“ジープ供出”とかという言葉があることが端的に物語っていよう。自家飯米と種子は手許に残していいが、それ以外の米の全量供出が“命令ノ定ムルモノ”だった。時には自家食糧を削って供出しなければならないこともあった。そういう供出を戦時中は軍の、戦後の一時期は占領軍の強権のもとでさせられた悲哀と憤りが、“ジープ供出”にはこめられている。
 食糧生産条件がきびしい山村からの報告だが、太田忠久氏の一文(同氏著「米つくりの悲哀」農業図書1971年刊)を引用させていただこう。

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 “米をつくりながら、米が食えなかった。米は割当てで強制的に供出し、裏作のほとんどきかない私の地方では、かわりに麦や、キビ粉の配給を受けた。その配給の麦を、7キロ近くもある農業会へ出かけて、背負って帰った。甘藷、ジャガ芋や、大豆も強制的に供出した。いや穀類ばかりでなく、ワラビやゼンマイ、クリなどの食用になる自然の産物もとって出すことを強いられた。このため山を焼いてアワやソバをまき、荒地を開墾して芋類をつくったが、それでも山の村では食糧は足りなかった。”(前掲書21ページ)。

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図
 自家飯米まで削って供出させながら、しかも低米価だった。当時の生産者米価と生産費の関係について、かつて私が計算した結果を図に示しておこう。帝国農会生産費も、農林省生産費も、ともに小作農のそれをとっているが、くわしい説明は拙著「基本法農政下の農業問題」の「第二章」を見られたい。農林省調査は、戦時中は公定価格のあるものは公定価格をとることになっていたので、実際よりは低くなる。その点、帝国農会調査のほうが信頼度が高いと私は判断しているのだが、戦時下になって米価はその帝国農会調査生産費を下回っていることに注目してほしい。
 地主制下で現物小作料として収穫の半分近くを地主に納めなければならなかった小作農にとっては、小作料差引収量で直接費用を除した小作費用価格がカバーされているかどうかこそが問題になるが、その小作費用価格は統制に入って、地主価格とそれに奨励金がついた自作価格に米価がわかれ、両者間の差が大きくなるにつれ、生産費を大きく上回るようになる。自作農にとっても生産費を償わない低米価だったが、小作農にとっては更にひどい低米価だったのである。“食糧難時代”でも“生産者優先、消費者保護軽視”の農政だったわけではない。
 その農政は、“ジープ供出”に象徴されるように戦後も占領軍の権力をバックにして続けられた。戦後の低米価を物語る格好の話題は、高度成長経済の幕を切って落とした池田勇人元首相が、大蔵大臣時代に提唱した“米価国際価格サヤ寄せ論”だろう。
 1950年8月、池田蔵相は衆議院農林水産委員会で米価国際価格サヤ寄せ論を述べる。狙いは輸入米につけられていた価格差補給金の廃止だった。当時100万トン近く入れていた輸入米の価格は、国産米価格よりもはるかに高かった。その高い輸入米を安い国内価格で売るために、財政でその差額を補給金として食管会計に繰り入れ、埋めていたのである。1951年でその額は321億円に達する。農林関係予算(補正後)が1千億円という時代での300億円である。国内産米価格を高い国際価格にサヤ寄せすれば、価格差補給金を切ることができる。それが池田蔵相の狙いだった。
 アメリカからドッジ公使がやってきて超緊縮予算を組み、戦後の悪性インフレ克服に成功しつつあるときだった。そのドッジ公使が要求したのが補給金廃止だった。ドッジ公使の言葉を紹介しておこう。
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 “日本の経済は両足を地につけずに竹馬にのっているようなものだ。竹馬の片足は米国の援助、他方は国内の補助金の機構である。竹馬の足をあまりに高くしすぎると、転んで首を折る危険がある”(有沢広巳監修「昭和経済史」日経新書下巻・82ページ)

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 池田は、まずは輸入米価格差補給金という竹馬を折ろうとしたのである。が、国際価格サヤ寄せは米穀統制撤廃であり、国内産米価の昂騰をもたらすことは確実だった。農業者は大賛成だったろう。49年の総選挙で民主自由党は統制撤廃を公約に掲げ、農民票を得て勝ったばかりだった。
 しかし、サヤ寄せで米価が28%も上がる見通しに、インフレ再燃を極度に警戒したドッジの反対がGHQを動かし、池田も諦めざるを得なかった。低米価による低賃金維持がインフレ対策としても重視されたのである。この一幕でも、食糧難時代の農政は“生産者優先”ではなく、むしろ“消費者保護”重視だったことがよくわかる、としていいのではないか。
 戦前、平常時(1934〜36年)――むろん統制前で米価は正米市場で形成されていた時代の庭先米価は、地代を含まない生産費の2倍だった。戦中、戦後の低米価時代は、この倍率は極端に低下していたが、1955年、2倍に復帰する。生産費との関係でいえば、米価は戦前なみのまともな水準になったわけである(この倍率のもつ意味については、岩波ジュニア文庫の拙著「日本農業のゆくえ」を見られたい)。
 2つの事情が生産者米価上昇を規定した。ひとつは占領が終わり(1951年サンフランシスコ講和会議)、“ジープ”の威力がなくなり、喜んで供出してもらうためには低米価是正が必要だったことである。これはいうまでもないが、もうひとつは、1948年の経済白書(農業白書ではないことに注意)が、日本経済の“自立”のためには、米の増産が急務だと力説しなければならないような状況に当時の日本経済があったということである。
 講和後の米価引き上げも“生産者”を“優先”するためというよりは、日本経済“自立”のために必要、という政策判断からだったのだが、この点については次回に説明しよう。




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