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シリーズ 農政は「生産者優先・消費者保護軽視」だったのか |
BSE問題検討委員会報告によると、“日本の法律、制度、行政組織は、旧態依然たる食糧難時代の生産者優先、消費者保護軽視の体質を色濃く残し・・・・”ているそうだから、まずは“食糧難時代”の“法律、制度、行政組織”が“生産者優先、消費者保護軽視”だったのかどうか、の吟味から始めることにしたい。 ◇ ◇ ◇
“米をつくりながら、米が食えなかった。米は割当てで強制的に供出し、裏作のほとんどきかない私の地方では、かわりに麦や、キビ粉の配給を受けた。その配給の麦を、7キロ近くもある農業会へ出かけて、背負って帰った。甘藷、ジャガ芋や、大豆も強制的に供出した。いや穀類ばかりでなく、ワラビやゼンマイ、クリなどの食用になる自然の産物もとって出すことを強いられた。このため山を焼いてアワやソバをまき、荒地を開墾して芋類をつくったが、それでも山の村では食糧は足りなかった。”(前掲書21ページ)。 ◇ ◇ ◇ 地主制下で現物小作料として収穫の半分近くを地主に納めなければならなかった小作農にとっては、小作料差引収量で直接費用を除した小作費用価格がカバーされているかどうかこそが問題になるが、その小作費用価格は統制に入って、地主価格とそれに奨励金がついた自作価格に米価がわかれ、両者間の差が大きくなるにつれ、生産費を大きく上回るようになる。自作農にとっても生産費を償わない低米価だったが、小作農にとっては更にひどい低米価だったのである。“食糧難時代”でも“生産者優先、消費者保護軽視”の農政だったわけではない。 その農政は、“ジープ供出”に象徴されるように戦後も占領軍の権力をバックにして続けられた。戦後の低米価を物語る格好の話題は、高度成長経済の幕を切って落とした池田勇人元首相が、大蔵大臣時代に提唱した“米価国際価格サヤ寄せ論”だろう。 1950年8月、池田蔵相は衆議院農林水産委員会で米価国際価格サヤ寄せ論を述べる。狙いは輸入米につけられていた価格差補給金の廃止だった。当時100万トン近く入れていた輸入米の価格は、国産米価格よりもはるかに高かった。その高い輸入米を安い国内価格で売るために、財政でその差額を補給金として食管会計に繰り入れ、埋めていたのである。1951年でその額は321億円に達する。農林関係予算(補正後)が1千億円という時代での300億円である。国内産米価格を高い国際価格にサヤ寄せすれば、価格差補給金を切ることができる。それが池田蔵相の狙いだった。 アメリカからドッジ公使がやってきて超緊縮予算を組み、戦後の悪性インフレ克服に成功しつつあるときだった。そのドッジ公使が要求したのが補給金廃止だった。ドッジ公使の言葉を紹介しておこう。 ◇ ◇ ◇
“日本の経済は両足を地につけずに竹馬にのっているようなものだ。竹馬の片足は米国の援助、他方は国内の補助金の機構である。竹馬の足をあまりに高くしすぎると、転んで首を折る危険がある”(有沢広巳監修「昭和経済史」日経新書下巻・82ページ) ◇ ◇ ◇
池田は、まずは輸入米価格差補給金という竹馬を折ろうとしたのである。が、国際価格サヤ寄せは米穀統制撤廃であり、国内産米価の昂騰をもたらすことは確実だった。農業者は大賛成だったろう。49年の総選挙で民主自由党は統制撤廃を公約に掲げ、農民票を得て勝ったばかりだった。 |