“春は枝頭に在って巳に十分”――春在枝頭巳十分――この言葉は、私も、前から知っていましたが、出典が分かりませんでした。ある日、何気なく秘書のYさんに聞いたところ、あっという間に解答を見つけてきてくれました。
これは、中国・宗の詩人、載益がつくった「探春詩」の一節だと言うのです。また、この意味についても、まだ、寒い2月に梅が一輪、枝先にほころびていれば、それだけで春がきたことを感じることができるし、それで十分だという意味だと、私は、長い間、思っていました。これもちょっとちがうらしい。
正解は、わざわざ遠くに春を探しに行かなくても、隣の庭の梅の小枝で春を見つけましたということらしい。未だに若干、釈然としないところも残りますが、彼女がパソコンから取り出してきた詩の全文とその解説を読むと、これ以上の抵抗は未練がましいので、諦めました。
同時に、ヤング“侮りがたし”という嬉しい敗北感も味わいました。
ヤングの武器は、情報機器です。パソコンから楽々と古今東西のあらゆる情報をとりだしてしまいます。この波は、世界中に広がっており、止めることは誰にもできません。そして、この動きが、国家間の垣根にも大小の穴を穿ちつつあり、経済の平準化(グローバル化)も加速されているように思えます。
“国”よりも大きな情報という“海”があって、そこでみんなが一緒に泳ぐ時代になりました。そこで泳げないものは、溺れてしまいます。この仕切りのない海の中では、政治家でも、お役所でも、わが国の農業だけを護るための“島”は築きようがありません。
農業は、まさにどこの国でも伝統産業ですから困った時には“カミ頼み”となる傾向がありますが、本当に頼みがいのある神様かどうかよく見極めてからお祈りをしないと時間とエネルギーの浪費になりかねません。
今までの巨額な“お賽銭”(予算)はどのように消えたのか、その結果、わが国の農業の発展にどれだけ役立ったのか検証されるべきです。同時に、農業にはまさに多面的な機能や分野があるのですから、作物別、地域別、市場別等で生き方がそれぞれ違うはずです。いまや、コメも、ようやく、ひとつの作物として位置付けが始まったように思います。
昔も今も、たくさんの生産者や生産地域が自立の道を開拓する努力を続けてきました。明治には、裸一貫で北海道に渡り、熊と戦いながら原野を開拓した先輩もいたのです。
現代では、原野を開拓する必要はありません。若い世代が中核になり、効果のない“カミ頼み”を止めて、I/T(情報技術)を駆使して、市場調査、直販の促進、生産管理、原価計算等々の切り口から、商流や物流を改革し、従来とは違う自立型農業の新しいビジネス・モデルを開拓するのが今日の使命ではないでしょうか。
“枝頭の春”が各地で既に始まっているのかもしれません。消費者は、外食・内食(家庭食)・中食(弁当/惣菜)を問わず、アリフレタ規格品ではない自分だけのオリジナルな食材をもとめています。それもひとつのねらい目です。
I/Tの活用により、消費者と生産者の距離が縮まり、互いのニ―ズが分かれば、市場の拡大につながる。さらには、相互の信頼感も生まれるはずです。I/Tは、そのための極めて有効な道具だと思います。(ジョージ) (2003.3.6)