◆担い手絞り込み論のなかで
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なかじま きいち
茨城大学農学部教授 1947年埼玉県生まれ、茨城県八郷町在住。東京教育大学農学部卒、東京教育大学農学部助手、筑波大学農林学系助手、鯉淵学園教授を経て2001年から茨城大学農学部教授、03年から日本有機農業学会会長。専門は総合農学、農業技術論、農業戦略論。主な共著書:「食べものと農業はおカネだけでは測れない」(コモンズ)、「安全な食・豊かな食への展望を探る−−食と農のよい関係をつくりたい」(芽ばえ社)、「有機農業−−21世紀の課題と可能性」(コモンズ)、「生協青果物事業の革新的再構築への提言」(コープ出版)、「有機米づくり」(家の光協会)。 |
昨年は「農政改革」ということで国から新しい担い手論が提示された。その特徴は担い手をごく少数に絞り込むという点にあった。この担い手絞り込み論は担い手以外の農家の切り捨て論とセットになっているから、この論が強行されれば自給率の更なる下落を招くのは必至だろう。農業の担い手は大勢いた方が良いに決まっていると思うのだが、基本法で自給率向上の責務を負っている国が、担い手をできるだけ少数に絞り込みたいとするのはまことに奇妙なことである。
国が提示した絞り込みのやり方は、国が担い手認定基準を設定し、その基準をクリアした農業経営体を担い手と認定するというものである。担い手認定は市町村が行うが、国の認定基準が守られているがどうかは厳しくチェツクするとされている。
そこで提示された認定基準は、他産業従事者の平均的な生涯賃金と労働時間と同等ということで、所得に関しては年間530万円という数値が示される。これを土地利用型農業の平均的収益性で換算すると都府県では10ヘクタール(水田1年2作型)、北海道では20ヘクタール(水田1年1作型)となり、これが担い手として必要な経営規模水準だとされる。しかし、現時点でこの規模水準に達している農業経営体はあまりにも少数なので、現在の経営規模が都府県では4ヘクタール以上、北海道では10ヘクタール以上で、10年先にはこの基準規模に達する目標計画を持っている農家について担い手認定するとされている。このやり方はおおよそ現在の認定農業者の認定に対応しているが、地域によっては年間所得目標が530万円以下で認定しているケースがあるので、これは国の指導で是正させられるらしい。
◆個人の所得はまずはプライバシーの問題だ
話はいつから所得政策になったのだろうか。話の始まりは日本農業の担い手論ではなかったのか。担い手認定されると国が530万円の所得を保障してくれるというのだろうか。だが、国にはそんな考えはまったくないようだ。国の提案は、担い手に所得を保証するというのではなく、530万円以上の人を担い手として認定し、その認定経営体だけには多少の財政援助を検討するというだけのことのようである。財政援助の額や方法はまだなにも確定していない。グローバル化の容認で農産物輸入はさらに増加し農産物価格がいっそう下落する政策を強行することを前提としたうえでの話である。
だが、考えてみれば個人の所得水準はとりあえずは個人のプライバシーではないのか。
多くの所得を望む人もいるし、所得はほどほどで良いと考える人もいる。人生の目的は所得だけではないと考える人も少なくない。人の一生のなかでは、多くの所得を必要とする時期もあれば、あまり多くの所得を必要としない時期もある。経営がうまく展開して、所得が多い年もあれば、逆に不作や失敗で期待した所得を得られない年もあるだろう。また、農業経営の局面によっては所得ではなく投資に振り向ける時期もあるし、投資を控えて所得を多く確保するという時期もあるだろう。
いずれにしてもこうした問題は個人の考え方や裁量の領域であって、国からあれこれ口出しされるような問題ではない。まったく余計なお世話だと言いたくなる。
農水省はしかし農業も他産業並にという。だか、他産業並みと言っても、たとえば都市銀行の幹部職員の所得との比較ではどうなのか。農水省の幹部職員の所得はどうなのか。天下りで何回も多額の退職金をもらっている元高級官僚の所得はどうなのか。不況の中でリストラに怯えながらサービス残業を強いられている民間企業の労働者の所得はどうなのか。また不況のなかでギリギリの経営を強いられている中小企業者の所得はどうなのか。こうしたことにまったく知らん顔をした530万円論はなんとも空疎である。こんな数値をいきなりもってきて、グローバリズム容認農政の政策基準にするというのは国の傲慢な身勝手というしかない。
◆しかしいま農家にとって所得論の見直しは大切だ
仮に昨年530万円の所得を稼ぎ得た農家がいたとしよう。彼は(国は農業経営の主体として「彼」しか想定しておらず、「彼女」という発想はない)新年にあたって昨年の所得をどう振り返るのだろうか。昨年も家族で力を合わせてずいぶん頑張った、その成果が所得となって実現した。その満足感もあるだろう。だが、よく考えてみればその満足は530万円という金額にあるのではなく、家族の一年間の頑張りと、その頑張りで支出の多い昨今でも息災に暮らしを続けることができた、そして新しい年も田畑の恵みを得て農業を継続できるぞという満足ではないのか。
グローバリズムの推進の下で、農産物価格はいっそうの下落傾向にある。しかし、資材価格等は下がる兆しはない。だから、農業の値打ちをお金だけで測ろうとすれば、どうしても空元気になりがちなのだ。いま農家が元気に農業を続けていく鍵は、お金だけでは測れない農業の値打ちをしっかりとつかみ取っていくことではないのか。
振り返ってみれば、かつて豊かな農家とは、日常の生活をあまりお金に頼らずに運営できる農家のことだった。すなわち田畑があり、山林があり、健康な家族がいて、頼りがいのある親戚や近所のおつきあいがあり、日常の生活はそれらに支えられて、あまりお金を使わずにも豊かに暮らせる仕組みがあること。これがかつては誰もが承認した豊かな農家像だったのではないか。農家の世界では暮らしに日銭がかかるのは決して豊かさを意味していなかった。
いま農業は平成グローバル恐慌のただ中にある。所得確保にはさまざまな困難があり、所得水準はたいへん不安定だ。そのなとき、農家にはあまりお金をかけずも豊かに暮らせる道があることをもう一度しっかり考えてみること。それはとてもたいせつなことではないのか。
農業、農家の目的は、単なる所得確保ではなく、農家らしい暮らし、農業らしい農業を続けていくことではないのか。新年にあたって、あまりお金を使わずに豊かな暮らしを築いていく方策について思いを巡らせてほしいと思う。
◆農家の初夢 それが新しい担い手たちを育てる
新しい時代の農業の担い手を考えるうえで一番たいせつなのは所得水準などではなく、新しい時代のビジョンだということは明らかだ。新しい時代の農業ビジョンの基本点はどこにあるのだろうか。私の意見は次のようだ。
20世紀には農業は工業に近づき、農村は都市に似ていくことに終始してしまった。その結果、農業も農村もひどい状態になってしまった。自給率も無惨な水準に下落した。工業と都市が主導した社会全体の状況はさらに深刻だ。食もひどいし、環境悪化も深刻だ。教育も、文化も惨憺たる状況になっている。中国の経済成長に牽引され日本の景気動向は昨年から多少上向きになっており、財界はそこに活路を開こうと懸命のようだ。しかし、この道は結局、社会と地球の破局を早めることにしかならないだろう。
21世紀には、工業と都市に追随するという行き方を止めて、農業も農村もその原点に立ち返るべきではないのか。お金と商品がすべてだという20世紀の理念に別れを告げ、新しい時代には農業は農業らしい道を、農村は農村らしい道を進むべきではないか。21世紀の私たちは、自然を敵視し、自然を征服するという20世紀の考え方を悔い改め、自然に敬意をはらい、自然と共にゆったりと生きていく道を目指したい。競争と争いばかりではなく、自給自立を基本として人々が認め合い、助け合っていける社会を目指したい。
これらのことを単なる空夢としてではなく、暮らしにおける現実性として考えることができるのが、農業であり、農村なのではないか。そこに農業や農村の時代的優位性がある。
新しい時代の農業の担い手とは、こうしたビジョンを自らのものとして追求しようとするすべての人々のことであり、それは少数者への絞り込みなどではなく、大勢の仲間へと輪を拡げていく道だと思う。