◆遺志を継ぐためにも
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梶井功氏
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中川 3世紀を生きた近藤先生が先日、106歳で天寿を全うされ、改めて先生の業績を認識させられました。先生には戦中に農林省の統計官を兼任した経歴もあります。今日は、先生の教えを受けた者として、少しでも先生のご遺志を引き継ぎたいという思いをこめて、敬愛されたその人柄なども含めて語り合っていただきたいと思います。司会者としては気楽な、いわばミニ同窓会のような座談会になればと思っています。では梶井先生からどうぞ。
梶井 近藤先生は農業経済学界の大先達です。学問としての農業経済学は先生に始まるとよくいわれます。そこで先生の学問的な業績の評価、あるいは学会での位置づけはどうか、が一つの論点かと思います。
それから先生ご自身の学問のスタートはチューネン(ドイツの農学者)研究からです。そこでチューネンから何を学んだか、その研究をどう展開させて成果を挙げたか、という点が二つ目の論点かと思います。
阿部さん、先生がドイツのチューネン協会と関わりを持たれたのは、いつからでしたか。
阿部 1990年頃からです。
梶井 15年前からですね。先生の告別式には同協会から丁重な追悼の辞が贈られました。そうしたお話を後で阿部さんからご紹介をお願いします。
さらにもう一つは先生の仕事の中で評価の分かれる著作「協同組合原論」についてです。これはユートピア的な産業組合論に対する批判の書として物議を醸した著作ですから、近藤理論と協同組合についてもお話をいただきたいと思います。
一方、先生は旧東京帝大の助手時代から農林省の統計官を兼任していました。戦後は統計調査局長にもなりました。そこで統計、行政、それに農地改革との関連も取り上げたいと思います。暉峻さんどうぞ。
◆青春期の時代背景
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暉峻衆三氏
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暉峻 私が感じている近藤先生の一端に触れ、後を補ってほしいと思います。
東畑先生は近藤先生のことを「あれは平々凡々の勝利だよ」と私によくいわれましたが、その通りだと思います。近藤先生は勤勉、几帳面で、不断に研さんを積まれ、その成果をまとめられた。先生はよく研究を「収束する」といわれたけど、多くの論文を書かれ、それを一冊の本に収束して膨大な著作に結実させました。
そして常に自己省察され、間違ったところは率直に認めました。一生を通してそうした研究姿勢を貫かれた。私などついていけないようなすごい先生でした。
もう一つ、先生は農林省の公的な仕事もされましたが、一貫して資本主義体制と、その政策を批判的に見続けられたと思います。
問題を見る基軸として、生産と経営の担い手である農民を基底に据え、それに政策がどう関わったのか、という観点があり、そこから物事を評価しようとされたのではないかと思います。
しかも、それを理論に流れず、実態の研究に即して評価されようとしたところが、近藤先生の真髄だったと思います。
近藤先生の理論が形成される青春期の時代背景には、第一次世界大戦があり、戦後にはコメ騒動、ロシア革命、労働運動、農民運動の展開、そして大正デモクラシーの波の高揚がありました。
そこから、さらに日本の資本主義が行き詰って昭和恐慌があり、満州事変を契機に対外侵略の方向へと踏み出していきます。そうした時代状況が先生の学問形成に投影し続けたのではないかと思っています。
◆マルキシズムの影響
その中で、先生はマルクスの理論、とりわけローザルクセンブルグの理論に大きな影響を受けられた。資本主義は常に、その外側の非資本主義的な外囲を取り込みながら発展するという理論です。
当時、日本は侵略戦争に踏み出し、外囲を求めながら資本主義を展開していった。そうした歴史的状況に関連してローザルクセンブルグ理論に影響を受けられたのではないかと思います。
先生が、その理論に依拠して科学としての農業経済論を初めて打ち立てられたことは一つの大きな画期だったともいえます。それが1932年の「農業経済論」に結実しました。関連してロシア革命も先生にインパクトを与えました。
そのころ、日本資本主義をどう分析するかで講座派と労農派が日本資本主義論争という大きな論争を展開しました。これが日本の社会科学の水準を大きく高めたともいえます。
その中で山田盛太郎先生が近藤先生をかなり手厳しく批判しました。山田先生は、外囲なしに資本主義はやっていけないというローザルクセンブルグの理論は間違っていると「再生産表式論分析序論」で明らかにされ、近藤先生の「農業経済論」を批判。さらに近藤氏の地主制分析は日本の歴史の特殊性をないがしろにしているとしました。
近藤先生は日本資本主義論争には積極的には加わらなかったと思いますが、山田先生の論に対しては素直にローザの再生産論には問題があるとして批判を受け入れました。
しかし一方では「もともと自分は「農業経済論」の中で日本農業論を展開しようとは思わなかったのだ。それは別の機会に回したのだ」とも語り、1942年になって「日本農業経済論」を出しました。
ここでは山田先生の地主制の規定をそのまま引用し、山田理論に傾いています。また日本資本主義論争ではだいたい講座派に分類されると考えます。
◆独占資本主義と農業
梶井 近藤先生は「農業経済論」の中で純理論としてはローザの理論は間違っているとはっきり書いて、その限界を指摘しているんです。
しかし、その理論は帝国主義段階、独占段階における資本蓄積の特徴を非常に的確に理論化しており、それが現実分析に役立つ。現段階での資本主義と農業の関係を分析するには、ローザの定式が良いといっています。また、それは日本だけの問題ではないと整理しています。
だから山田さんの「再生産表式論分析序論」の批判は、ちょっと表面的過ぎたと思います。
もう一つは「農業経済論」は日本農業論ではないよ、ということが最初から問題意識としてあったわけです。初版から2年目だかに出版社が変わり、その時に新たに「資本主義と農業」という副題をつけました。それは、材料はかなり日本農業から取っているものの、資本主義と農業の関係を一般論として論じているんだという趣旨からですよ。
山田さんが批判した点に、地主は時に進歩的役割を果たすよ、といっていることがありますが、労農派は逆にそこのところを評価したのですが、両方とも「農業経済論」を日本農業論としてとらえて議論したんです。しかし近藤先生本人の意図は最初から違っていて、日本農業論は「日本農業経済論」として、その後になって出しました。
農業経済論は戦時中にページ数が、それまでの版の半分になり、書き出しも「日本における…」云々と変わりました。
また「地主の進歩的役割」云々を入れた「注」も山田さんの批判を受け入れた形に変えています。
「農業経済論」が最初に出た時に、ローザをなぜ取り上げるのかという点が積極的な議論にならなかったのはちょっとおかしいと思います。純粋理論として、資本主義の再生産論からいえば資本主義の枠組みの中で外囲なんて必要なしに蓄積は行われるけれど、現実に独占段階に入った蓄積の姿を見ればローザの定式は有効だという点、この議論がなかったことへの疑問符です。
◆現実の具体的分析へ
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阿部正昭氏
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暉峻 資本主義の再生産を価値として実現するかしないかの問題とすれば、ローザの蓄積理論は正しくないが、私はそれでもローザにひかれると近藤先生はいいます。資本主義の外囲を取り込みながら資本蓄積を促進していくというところに一つのローザの着眼点の積極面があるんだという点です。
そこをきちんと区別して山田先生に応じればよいのに、近藤先生は余り理論的に応酬するタイプではなかったのではないかと思います。突っ込まれる面を残しているのです。
梶井 「協同組合原論」も理論的分析です。資本主義体制下で協同組合が客観的にどういう役割を果たすかということについて、流通過程の最大合理化に奉仕する形で資本蓄積に寄与するという側面ばかりを取り上げています。「協同」資本が特殊な資本としてどう動くのか、動くべきなのかという分析がない。理論的にはそういう面での弱さがあると思います。
阿部 近藤先生が「農業経済論」を書かれるまでの基本的な業績はチューネンと肥料問題などがあるということですが、その間に先生は昭和恐慌や農村の窮乏という現実をどんなふうに見ていらっしゃったのか。それについて何か書かれたものはありますか。
梶井 「チューネンからなぜ離れるか」を書いたものがありますよ。その中ではチューネンにはやはりユンカー(プロイセンの土地貴族)としての限界があり、地代を経営展開の最大の基準に置いているが、小農の日本には適応しない、やはり農民労働の価値がどう実現するか、そこにポイントを置いた形で理論構成をやらないとだめだ、そんな反省をチューネンの「孤立国」研究の中でやるんです。それから日本の現実の具体的な分析のほうに帰ってくるのですね。
阿部 すると、先生がその後積極的に進められる農村の調査は、それまではなさっていないのですね。
梶井 ええ。「孤立国」研究の過程では足尾銅山の公害問題にぶつかります。そして農民の被害は大きく、その対策に自然科学者の古在先生が取り組んでいるのを見て、では、おれたちは何をやるんだ? という反省があり、それが農村の現実を調査する仕事への大きな転機になったと思います。
暉峻さん。近藤先生の「日本農業論」についてお話してください。
◆追われる姿忘れない
暉峻 内容は多岐に渡っていますので、戦時期と農地改革期と基本法農政を先生がどう見たかに絞って簡単にやりたいと思います。
私は1939年刊の「転換期の農業問題」という著書が先生の問題のとらえ方が最もクリアに出た本だと思います。そこで提起された問題は、農産物の低価格政策と農業生産力の拡充が今や重要な課題になっているということです。それを両立させるためには農業に資本が入ることなしには不可能だという解答ですが、それは経営規模の拡大となります。しかし現実には私的所有としての地主的土地所有が、それを阻んでいるから、それに制約を加えないといけないという論理展開になっています。
その中で先生は「私的土地所有に基づく私的生産が止揚され、純粋な形の社会的生産が行われ得るのは、ロシアのごとく社会的革命を経過した場合である」と敢えて書いています。
戦争中にこんな大胆なことをよくいえたものだと私は驚き、尊敬しています。それは先生の学問的誠実さの表れでしょうが、ちょっと政治的に目先の聞く人なら書かなかったはずです。
しかし、やはりここが問題となり、帝大教授辞職に追い込まれます。ところが、この本では、今はそこ(止揚)まで立ち入って考察することはしないとし、私的土地所有を制限することに課題があるのだという展開になっています。
私は1943年に東大に入り、ちょうど先生が辞表を出して退職金かなんかの手続きに来ている姿を見ました。あの光景は一生忘れられません。
その後、東亜研究所に入った先生は、自分は研究所で生活できたが、ほかのマルクス経済学をやった人たちは監獄にぶち込まれて苦労した、おれは、その苦労をしていないと「3世紀を生きて」という本で書いています。ここにも自分を謙虚に省みる先生の誠実さが出ており、私は感動を覚えました。
戦後は先生が晴れて公けの場で活動できる時代で、内閣の農地審議会の委員とか農林省の統計局長もされました。しかし、ここでも統治する側の立場で農地改革を見ていなかったと思います。
◆上からの農地改革
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中川敞行氏
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ここでは、先生の数多の農地改革論の中から1970年に出た「日本農業論」の上巻に書かれた農地改革論に依拠して話したいと思います。
そこには農地改革を「占領軍と日本の官僚による上からの改革だった」とし、農民的要求の爆発によって達成した改革ではないと明言しています。
この段階では中国革命の重要な基礎として土地改革が進展していた影響が大きかったと思います。日本の農地改革は中国の土地革命とは性格が全く違うといっています。
日本のそれは農村の民主化に真に効果を発揮することができず、活発な農業展開の前提条件をつくり出すものとは成り得なかったとしています。先生は統治側の立場におぼれないで日本の農地改革をかなり後ろ向きのものして冷静に見ておられると思います。
先生は常に生産力と経営を担う農民の視点から問題を見ようとするスタンスで、農地改革は低米価、強権供出、重税などとセットになって行われたということとの関連で、また中国の土地革命とも対比しながら評価をされたと思います。
しかし一方では農地改革を基礎にする自作農体制が、その後の高度経済成長と基本法農政の下で、カギかっこ付きながら一定の開花を遂げたと、とらえてもよいのではないかと考えます。その点を先生はどう把握しておられたか、私はまだよくつかんでおりません。
農林統計にも先駆的足跡 協同組合幻想いましめる
◆零細農民のクビ切り
基本法農政については「日本農業論」の下巻で、それを労働力の動員政策だと規定し、国家独占資本主義の下での農政としてかなり批判的に見ています。
高度経済成長政策の下で農業人口を減らして自立経営を育成する構造政策がここで提起され、それと関連して農工間の所得均衡を図っていく政策理念が提起されたとしました。
従来は農産物の増産とか物資動員的な政策が農政の重要な柱になっていたけれど、ここでは新たな理念を展開していくという点があって新鮮な一面も持っているといっています。
しかし現実には零細な農民のクビ切り政策の側面をもっている点をかなり重視しています。
結局、高度経済成長政策とセットになった基本法農政で、農民は格差構造を持った低賃金の労働市場に吸い取られ、脱農していく形になりました。同時に農業から完全に離脱できずに兼業として滞留していく側面もあって自立経営の育成はうまくはいかないという形で見ておられたのではないかと思います。
構造改善事業の重要な一環をなしている機械化一貫体系についても機械化貧乏を促進して農業からの離脱を促す面を持っており、構造改善にはつながらないと強調しました。
要するに基本法農政を国家独占資本主義のための労働力動員政策とされましたが、同時にその政策が農村の労働力不足をもたらして、それが農村の機械化や近代化を促すという側面ももっており、そして一般的労賃水準が農村労賃の基準になることによって農業が企業として確立することを促し、農村の構造改善を促すという側面にも副次的ではあるが着目しておられます。
ここでは農業の内発的展開の条件も一方では形成されるという面も指摘されたわけです。
梶井さんらは70年代初めに出た「成長メカニズムと農業」という本で小企業農とか資本型上層農とかいうものが高度経済成長と基本法農政のプロセスと関連して形成されてくるとしました。私もそのころ「国家独占資本主義と農業」という本を出して、農業の資本主義的性格が強化されてくるといいました。
それで私は梶井さんに「資本主義的性格の強化とは何だ」などとくってかかられた記憶がありますが、期せずして、ともに内発的条件というものを基本法農政の中に見ていた面があります。
◆赤色教授のリストに
中川 いろいろな裏話もあるものですね。その辺のところを梶井先生お願いします。
梶井 近藤先生は「転換期の農業問題」で東大を追放されますが、その前に「農業経済論」が槍玉に挙げられました。マルクス経済学に立脚した本だということ自体が一番の問題になりました。文部省が問題にしただけでなく枢密顧問会議ですか、そこでも「帝大にマルキシズムを信奉している赤色教授がいるのはいかがなものか」との弾圧の論陣を張った人がいてリストの中に近藤という名前があったというんですね。
中川 「宸襟を悩ませ賜う」とかいった言葉も出たんじゃないですか。えらいことです。
梶井 それで一度辞表を書くんです。しかし、そのころ先生は統計官兼任でしたが、時の農相は井野さんでしたが、井野農相が会議に自分も出ていたが、近藤の名前はなかったといって文部大臣に異議申し立てをし、一旦は辞表却下になるのですが、井野農相退官後に文部省がまた問題をブリ返して、結局は辞職することになった。
阿部 先生は「(辞職しても)僕はぬくぬくと再就職したが、ほかの方々はひどい目に会って、その中で勉強を重ねた」といわれたとのことですが、大内兵衛さんに始まり、近藤先生でほぼ終わる被害者グループとは何か連携はなかったのですか。
梶井 ほとんどないですよ。
中川 全く暗くいやな時代でしたね。
梶井 農地改革では先生は農民の意識変革がないと上から与えられた改革になってしまうという点、農民自身の弱さを問題視してました。
協同組合論でも農民の意識改革を問題にしていましたが、それが典型的に出てくるのは未墾地開放の処理問題です。未墾地の買収価格と入会権や利用権をどう評価するかの問題をどういう基準で処理するか、中央農地委員会で問題になった時、近藤先生は現地の農民自身の判断に任せようという案を出しました。しかし決まったのは官が上から決めて全国画一的にやってしまう内容でした。
◆チューネンの理論
中川 私たちは講義の中で、そうした近藤先生の一貫して農家のレベルで考えるという基本を学んできました。では次に阿部さんからチューネン協会とのいきさつを。
阿部 近藤先生がチューネンをどう位置づけていたかは面白い問題です。チューネンは北ドイツ・フリースラントの小農業者の倅で、もともとユンカーの経歴はないのです。テアーのもとに学んだのち、1806年ポンメルンに小さい農場を借りて経営をしましたが、うまくいかず、1810年にあらためてメクレンブルクのテローに移り、460ヘクタール余の農場主になりました。10数年の研鑽を重ねたのち、最初の「孤立国第1部」を出版しました。
彼は非常に近代的なセンスがあり、農業者であると同時に国民経済学者、農学者、プラス化学者、土壌学者でもあり、多面的な科学者でした。そうしたことが「孤立国」を理解する前提として大事だと思います。
チューネンの経営方法は明らかに地代を中心に追求し、立地論を体系化しました。彼の理論は、その後の様々な経済理論の中で非常に重要な意味を持っています。彼はリカードを批判しながら労賃論を展開し、その中で有名な自然労賃が√apだという理論を完成させました。
これらは、後にシュムペーターなどが指摘したように、数学的手法を利用した「限界理論」の先駆のような新しい理論だったのではないでしょうか。
興味を引くのは、彼がユンカー的であったとはいえ、労賃論の分析に見られるように、イギリス型の新しい資本家的農業経営を目指したのではないかという点です。さらに彼は、農場の労働者に対する社会福祉的側面を、積極的に考えていました。
◆ドイツからも追悼文
そんなことからチューネンの業績は、旧東ドイツで1970年代から、そして統一後のドイツでも大きく評価され、連邦・州・市などの支援を受けてチューネン協会は発展しました。
近藤先生は1929年にチューネンの「孤立国」の日本訳を出版されましたが、そのことをドイツの研究者は長い間知らなかったようです。しかし再統一の頃ドイツに留学した谷口さんがチューネン記念館にその本を届け、日本にはこんなすごいものがあるのかということになりました。
その後、チューネン協会は近藤先生と積極的なコンタクトをとり、90年には記念館が先生を招待したのですが、先生は高齢のため行けませんでした。99年に先生は百歳記念としてチューネン関係のすべての著作をチューネン記念館に贈られたのです。今では先生のご本が記念館の書架にずらりと並んでいます。なおこの記念館の建物は、もともとチューネンが使っていたものです。
先生の告別式にはチューネン協会会長のタック教授(ロストック大学)から追悼文、記念館の館長のバルツさんから弔辞が贈られて来ました。
追悼文には「チューネン協会の名誉会長近藤教授は大きな業績を残した。彼は3世紀を生きた。東京とテロウ(チューネンの故郷)を結びつけた。しかしテロウを訪問したいという彼の夢は果たされずに残った。彼は29歳の時、チューネン理論の基本を把握し初めて発表した。I
年後に日本語訳「孤立国」を出版し、これを土台として、体系的に日本の農業経済学を発展させた」などとありました。
記念館長のバルツさんは3年前に来日し、近藤先生宅の庭にドイツから持ってきたカシワの苗木を記念に植えました。それは西暦2000年のミレニアムを記念してテロウの農場の裏庭で育てられた苗木だったのです。
◆農業簿記から理論が
梶井 近藤先生は、現実から学び、それを抽象化して理論化していく方法をチューネンから学んだ、それが一番大きかったのではないかと思います。
阿部 そうでしょうね。チューネン自身もテロウ農場で約40年、簿記をつけ、当時の穀物価格と地力・肥料問題なども詳細に研究しています。(注:このチューネンによる莫大な簿記類は、ロストック大学のチューネン文庫に現在も所蔵されているようです)
梶井 畜産物価格と穀物価格の関係を農法転換を規定する要因として重視していますね。
ところで日本では近藤先生が統計官になるまで土地所有統計がなかったのです。あれだけ地主的土地所有で大激論をやっているのにですね。地価の動きを示す統計もありませんでした。それで近藤先生が初めて、それらの統計に手をつけました。それがなかったら農地改革も短期間にはできなかったと思います。
中川 先生はやはりチューネンを勉強したからこそ統計にも取り組まれたのですね。
◆協同組合と流通資本
梶井 最後に先生の「協同組合原論」ですが、あれを出したのは産業組合がスタートしたばかりのころで、産業組合に夢を託した人がいっぱいいました。資本主義社会の中で、産業組合運動によって理想的な協同組合社会をつくることができるのだという幻想があったのです。
それに対して、資本主義社会の中で現実に協同組合が果たす機能は、特定の形の流通資本としての機能だと先生は説きます。
ロッジデールなどが果たした機能も、不等価交換などでもうける商人資本の活動に対して、インチキをやらない流通資本としての機能でした。
その限りにおいて協同組合は、合理化によって流通過程のコストを節約する役割を果たすだけだ。新しい社会をつくるなどという幻想を持つのは誤りだというのが「協同組合原論」の骨子です。
とはいっても協同組合資本は利潤を追求する資本ではなく、特殊な形式を持つ資本であり、それをうまく活用することによって人々の生活を豊かにする新しい道があるというのは三輪昌男理論です。
それは協同組合原論の限界をついていますが、近藤先生は後年になると三輪理論を積極的に評価していました。協同組合を理論的に勉強したい人は三輪君の本からスタートしなさいと勧めていたということです。
中川 短時間でしたが、先生の秘められた部分も聞くことができ、また先生の一貫した研究姿勢を語って頂きました。
私達も先生を見習って勉強いたしたいと思います。今日は本当に有難うございました。 |