生業を受け継ぎ集落に輝きを生み出す
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糸をつむぎ、機織り機にかける。伝統のしな織りの光景 |
◆「そこにあるもの」に惹かれて年に7000人
寒波の襲来で荒れる日本海の波しぶきがホームにまでかかる羽越本線・府屋駅。12月には珍しいと地元の人がいうほどの雪のなか、この駅から山形との県境に向かって車で30分ほどの山のなかに小さな集落がある。
山北町山熊田集落。22世帯、71人が暮らす。集落の奥にはブナの原生林が広がる。
ここに今、年間7000人ほども都会から人が訪れるようになった。
「5年前には考えられなかったこと。町から来るとこの先に本当に人が住んでいるのかなと思うようなところでしょう」。元商工会事務局長でさんぽく生業の里企業組合総支配人の國井千寿子さんは話す。
ピーク時の秋には1か月に1000人を超える。集落の人口よりも多い1日100人もがやってくる日もある。
とくに宣伝もしていないが訪れる人の目当ては、平成12年に立ち上がったこの「生業の里」だ。民家を改装してつくった工房で集落の4人の女性が地域で代々受け継がれてきた「しな織り」をつくっている。
山にあるしなの木の甘皮を梅雨の時期に剥ぎ取り、水にさらし、木の灰汁で煮て柔らかくして帯状の繊維だけ残して乾燥させる。秋から冬の間に、一本一本を手で裂いてつなぎ、糸にして、よりをかけてから機織り機で布地にする。
その布地を帯、バッグ、帽子、名刺入れなどさまざまな製品にして販売している。ほかにも予約をしておけばこのしな織りが体験できるほか、木の灰汁に浸して作る餅「アク笹巻き」づくり、さらに山熊田集落の旬の食材でつくる郷土料理も味わうことができる。
料理はマイタケを入れたご飯やわらび、ぜんまい、ごぼう、にんじん、イタドリ、大根など10種類以上もの山菜、野菜を入れたこの土地のけんちん汁などで、季節に合わせたおまかせ料理だ。
集落の人々にしてみれば何も特別なものではない。それをおいしい、いいなこんな生活、と訪れる人は言う。最初は不思議な感じさえしたが、その新鮮な交流体験が、ここの人たちに誇りと元気を出させている。
◆「生活」をそのまま打ち出す
しな織りやつる細工、あるいは伝統的な料理にしても、材料集めから加工まで手間はかかるが、ここに暮らす人にとってはまさに生業であり生活そのものである。スローフード、スローライフが流行だが、この集落にはもともとあるもの。それを外に向けて発信するきっかけになったのが「生業の里」企業組合である。
どの農村でも活性化の取り組みがあるだろうが、この山北町でのキーワードは「人」と「生業」だ。
國井さんが商工会事務局長時代の昭和60年ごろには、商工業の発展を念頭においた「地域の特性を活かした産業の振興と人材育成」をテーマとした「地域ビジョン」を、行政、農協、漁協などの関係者とともに熱心に議論した。それは平成元年に山北町で策定した「山北町観光開発基本計画」につながり、考え方の基本として行政や産業団体は黒子役、演じるのは住民、を掲げた。住民が望み、住民に誇りと元気が出る計画でなければならないというものだった。
「観光計画といっても住んでいる人が望まない上からの押しつけではだめだと考えました。外から来て泊まってもらうにしても自分たちが住んで、いいところだなと思えなければ呼べません。食べ物にしても自分たちがおいしいと思えるものでなければ出せませんよね。だから、観光計画ではありますが、自分たちで町を作っていこうという気持ちになる人づくりも大事だということになった」という。
しばしば町村の活性化計画策定は外部のコンサルタントに依頼してしまうケースもみられるが、國井さんたちが強調するのは「丸投げはしないで自分たちで汗をかこう」と住民が積み上げた計画だという点だ。
◆一つひとつの集落は町の光
人口7800人、2500世帯の山北町は、海から山まで48の集落があり、古くから漁業、農業、林業などが営まれてきた。もっとも今は、専業農家はほとんどいない。林業も兼業が中心である。
人口は昭和33年には1万5000人を超えていたから今はおよそ半分。ただ、世帯数はそれほど減少しておらず今も48の集落が保たれている。
住民がそこに住むことに誇りをもって元気を出そうという観光開発基本計画などにそって、町では、それぞれの集落の暮らしを見つめ直していく集落づくりに平成2年ごろから取り組んできた。
海に面し肩を寄せ合うようにして住居が集まっている集落には漁業を中心として受け継いできた生活、文化があるし、山間部の山熊田集落の名前には、山、熊、田んぼがそれぞれ暮らしを支えていたといういわれもあるという。実際に今もマタギの文化が残っていて春には共同で狩りも行われる。
こうした集落ごとの特徴をいかした町づくりを進めているのである。
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さんぽく生業の里のみなさん。
後列左が國井さん、右は町役場町づくり係の富樫充さん |
◆広がり始めた里の営み
商工会では策定した「地域ビジョン」を受け、昭和61年に実施した「村おこし事業」を「しな布」をテーマとして商品化に取り組んだ。自らの手で作り、日常生活で使用していた「しな布」が商品化されたことで、地域の産業は大きく変わった。
そして、平成10年、この古代伝統の織りの技術を海外で披露する機会を山熊田の女性、大滝栄子さん、大滝ムツ子さんの2人は得る。フランスで開かれた稲と麦のフェスティバルでしな織りの実演を行ったのである。「パスポートなどははじめてとった」という2人。帰国後の「私たちもなんかやりたい」との思いが、平成12年の生業の里設立へとつながった。
「特になにをしようということではなく、とにかく何かをしようと。自分たちでやってみたいと思った気持ちが大切ですから」と設立当時の思いを國井さんはこう語る。集落全戸に声をかけ、呼びかけに応えた大滝さんたちを含む5人と集落外からの出資者合わせて14人で、しな織りを中心とした地域の生業を活かした活動をする「さんぽく生業の里企業組合」立ち上げに動いた。
助成金と商工会からの斡旋による借り入れ金などで空き屋になっていた民家を買い取り、工房にした。その後、増築もして郷土料理を食べてもらったり、さまざまな体験ができるようなスペースが作られて行く。
しかし、最初は、古い薪ストーブや畳など女性たちが持ち込んでスタートした。今では2100万円の売り上げがある。そのうち7割がしな織りの販売高だ。取材で訪れた日にも國井さんが注文の電話を盛んに受け「帯を15本頼みますだって」などと忙しそうだった。
生業の里が核になって、この集落自体にも生業が戻ってきた。たとえば、しな織りの糸は集落のほとんどの家がここに卸すようになり、集落全体の生産性も上がっている。
燃えさかる薪ストーブに使う雑木は、お父さんたちが山から伐りだしてくる。その灰をアク笹巻きに使うし、しな布を煮るのにも使う。
また、赤カブ浸けもこの土地の伝統的な郷土料理だが、赤カブは山の木を伐採した後に焼き畑をして植え付ける。無添加、無農薬の本物志向で、自分たちの作れる分だけ栽培し、加工する。
「もし灯油のストーブだったら、アクはどうなるのかということですね。暖房ひとつとっても昔ながらの生活がどんなものだったか分かる。灰が必要だから薪がいる。薪が必要だから山がいる。そして山に入る人が必要になる、というようにつながりが出てくる。
その灰はアク笹巻きに使うわけですが、アク笹巻きを食べてくれる人がいなければ作らなくなりますよね。ここのけんちん汁だって食べてくれる人がいなければ作らなくなるかもしれません。そうなければ伝承ということもできないわけです」と國井さんは語る。
ここを訪れ料理を食べ体験をするということは、ここの生業を支えることでもある。
今後の生業の里の目標は、しな織りが伝統的工芸品の指定を受けたことによる名前の広がりから、新たな消費者との直接のつながりを増やすことだ。そうなればつくる側でも人手が増やせるし、そのなかから後継者も生まれてくると考える。集落外からもここで暮らす人も出てくるかもしれない。
「小さな活動の積み重ねです。それが人と人とを繋いでいくということを実感しています」と話す國井さん。
生業とは、まさに人と人との交流そのものではないかと感じた。
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