農業協同組合新聞 JACOM
   
シリーズ 歴史を振り返り農協のあり方を考える

JAをどう利用するか
青年の発言もっと活発に
JA宮城県中央会元会長
駒口 盛氏に聞く
聞き手:梶井功東京農工大名誉教授



 農協を創り、その運動を推進してきた先達に、これからの農協のあり方を御提言いただき、農協運動の復権をねらうこのシリーズの第二弾は宮城県各連の元会長でJA全中元理事の駒口盛氏に登場願った。終戦を迎えた時は18歳。軍国少年から180度転換して、農民運動の青年部活動を始めた。29歳で農協理事となってからは農協運動一筋。その話は今も若々しかった。戦後の再出発点で掲げた日本の方向は間違っていなかったとして、今の小泉改革に対しては警鐘を鳴らす。ホリエモンを評価してきたような風潮に対して今こそ協同組合の助け合い精神を声高らかに訴えるべきだと語られた。

◆若者を育てる気風を

こまぐち・さかり 昭和3年宮城県生まれ。昭和32年宮城南郷農協理事、35年同農協専務理事、46年宮城県議会議員(一期)、47年宮城南郷農協組合長理事、53年宮城県農協中央会及び各連常任理事監事、62年同中央会会長、平成5年中央会各連共通会長を歴任。

 梶井 昭和32年に駒口さんは29歳で農協理事に選ばれています。これは大変なできごとだったろうと思います。

 駒口 これには前段がありましてね。終戦で価値観の大転換を迫られ、南郷村にできた日本農民組合の青年部は学習会を精力的に開きました。当時の日農は全村加入で、軍国少年だった私も自動的に青年部に入り、学習会に出ました。
 やがて青年部活動のリーダー2人のうち小川俊雄さんという方は土地改良区の、また斎田徹郎さんという方は農業共済のそれぞれ常務理事に選ばれ、若輩の私にも「農協役員をやれ」という声がかかり、青年たちに推されて理事になることができました。
 村には若い者を育てる気風がありました。だから小川さんにしても25歳で村会議員になっており、また29歳で村長になった人もいます。ちなみに斎田さんも後に町長になっています。

 梶井 そこには農地改革の影響があるのですか。

 駒口 いえ戦前からの気風です。南郷は大地主たちの村で自作農は1割でした(昭和14年)が、いわゆる開明地主が多かった。中には国民高等学校をつくって村に寄付した人もおります。また農地改革の前に農地を解放しちゃった人が2人います。その1人が初代の農協組合長である木村仁さんです。

 梶井 「南郷町農協二十年史」には、お米の強権的な供出を迫った県に対して駒口さんらが地方事務所長と直談判した話が載っています。

 駒口 あれは農協設立直前の23年冬でした。小川、斎田両青年を先頭に私が事務局長の形で乗り込み、人権無視のやり方に抗議しました。また南郷はよそより多く供出しているのに引揚者たちには十分に配給されていない、供米割り当てそのものがおかしいなどと深夜まで交渉して納得してもらいました。

◆町ぐるみで米価要求

梶井功 東京農工大名誉教授
梶井功 東京農工大名誉教授
 梶井 理事になって3年目の35年には専務になった。これも異例のスピード昇格です。

 駒口 前任者は非常にまじめな百姓で、農協運動といえば貯金集めだ、借金なんかするものでねぇ≠ニいう主義で、専務の仕事は借金を断ることといったふうがあったため、若い連中は農協は変わったということを見せるためには私を専務にと推してくれたのです。
 農協設立から12年経ち、基礎ができたから若い者に任せてもという安心感も理事たちにあったようです。私自身は当選してびっくりしましたが。

 梶井 「月給農家」という言葉が二十年史に出てきますが、これはどういうことですか。

 駒口 昔は年に一度秋に米代金が入るだけの百姓の生活は秋は大名、夏は乞食≠ネどともいわれました。そこで年間の生活費を月給制のように確保できないものかと平準化を呼びかけたのです。
 問題は借金でした。そこで農協以外からの借金をすべて農協が返済して農協の貸付に肩代わりし、長期年賦で返すことができる仕組みを考えました。

 梶井 その上で毎月の生活費は農協貯金の中から一定額をおろしていくという生活設計を立てさせたわけですね。

 駒口 ところが米代金の枠内ではどうしても足りないので、ほかに収入を増やす道を考えなければということで、養豚とか野菜作りを導入し農協の事業を広げました。

 梶井 複合経営化ですね。ところで32年に発足した「農職連」という組織は実にユニークな活動をしていますね。

 駒口 南郷町農業関係団体職員連絡協議会といい、町、農業委員会、公民館、農協、共済組合、土地改良区の職員で構成し、各機関のトップ層による地域づくりの協議を事務局の立場から支援する組織です。

 梶井 60年代、南郷の全町的な米価闘争は全国的に有名でした。農職連も活躍したのですか。米価要求で町民大会を開くなんてほかにはなかったことです。

 駒口 稲作農家の実態は当時、平均耕作面積が1町5反で所得は高校卒の農協職員の初任給より低かったと思う。これではどうにもならない、我々にも生活する権利がある、だとすれば米価闘争は権利闘争だという考え方がありました。
 一方で全国的には米価運動を農協の請負運動だとする見方もあったため、米価要求を町民自身の運動にしなくてはだめだと、農職連の人たちはそういう考え方で活躍しました。

◆進む転作集団づくり

 梶井 残念ながら全国的にはそういう形にならなかった。

 駒口 そうなんです。後年ウルグアイラウンド(UR)の時、欧州各国の農民デモを見ましたが、これぞ自分たち自身の運動という感じでした。スキやカマを手にフランスデモで道いっぱいに広がり、すごい熱気に圧倒されました。

 梶井 日本ではマスコミなんかで運動が孤立させられる面もありますが、一部の人の運動になりがちです。南郷の米価運動はその後も続いたのですか。

 駒口 減反政策が始まって、減反反対運動(全国一律1割減反)が加わりました。南郷では減反率が1割から2割になった時、反対運動だけではだめだ、将来展望を本気で描こうという議論が出ました。農職連と農協は、米以外は作れない状況から、何でも作れる農地に変えていこうという運動をしました。一時的には挫折しましたが、再度取り組みをし、今は完成しています。
 その運動が転作集団づくりとして進み、これが、これからは集団営農組織に転化するのではないかと期待しています。
 ちなみに私は生産調整反対を唱えて県会議員に当選し、1期を務めました。

 梶井 生産調整は政策目的を明確にしないまま続いています。水稲作付けはしないが水田機能は保全しようというのは、食料安全保障のための生産力確保対策であり、国が責任を持たなければならない重要政策です。価格安定の手段ではありません。そこが不明確であるため、価格変動を前提とする先物市場開設の要請も出てきます。減反による価格維持説をいいながら先物を容認するのは全く矛盾しています。

 駒口 先物は投機に走る人たちのおもちゃですよ。

 梶井 JA全中理事の時にはウルグアイラウンド農業交渉の妥結がありましたね。

 駒口 私は全中の水田農業対策中央本部長でした。だから責任をとってやめましたが、全体として、そんなケリのつけ方でよかったのか反省しています。というのは日本には欧米のように自国の農業をどうするかという軸足がなかったため団体としては関税化反対一本ヤリで進んだのです。それから、UR対策費6兆円の使い方も大いに疑問です。

◆小泉改革はおかしい

 梶井 本来は、この時、不足払い的所得補てん策を講じなければならなかったんですね。UR対策は無きに等しかった。さて若者たちに話を戻して、JA青年部の盟友に対する注文とかはどうですか。

 駒口 例えば、宮城の石ノ森農協の青年部長は合併総会でJA合併反対派を賛成派に変えました。自分の経営方針の演説によってです。
 自分のところのJAには花作り農家が自分しかいないのでロットが小さくてJAが取り扱っても経費倒れになる、しかし合併すれば、相手JAにも花作り仲間がいるから、みんなで部会をつくって出荷できるようになり、JAも組合員も得をすると訴えたのです。
 これは一つの例ですが、自分のためにJAをどうするかの発言がもっとほしいと思います。

 梶井 おれたちは協同でこういうことをやりたい、だから農協は、それが実現できるようにしてほしいという、そういう発言ですね。

 駒口 現代における協同組合運動の役割とは何かをもっと考えてほしいと思います。その反対の方向で効率化とか競争を追求すればホリエモンになってしまいます。我々がたたき込まれたのは農協は単なる事業体ではなく組織体であり、運動体である、三つをちゃんとするということでした。

 梶井 もちろん経営体としての側面は大事ですが、農協経営を支えるのは、協同の運動に参加しているのだという組合員の意識です。それがないと効率追求になってしまいます。だから意識を高める教育が大切です。

 駒口 協同組合運動は教育に始まり、教育に終わるといいますからね。農協批判がはびこり、ホリエモンが評価されるような風潮に対して、今こそ協同組合の助け合い精神を声高らかに訴えるべきです。農協側には何か、やられっぱなしになっている、弁解しているといった感じがあります。

 梶井 組合員教育をめぐる問題点をもっと研究する必要もありますね。

 駒口 そうです。戦後の日本は民主主義国家、平和国家として再出発しました。その方向に間違いはない。ところが小泉さんはそこを見直そうとする動きを強めています。そんな方向では日本の社会はおかしくなる一方です。私たちが青年部運動を始めたときのことを振り返ると、どう考えても小泉さんのやり方はおかしい。

 梶井 やはり強きを助け弱きをくじく新自由主義の考え方ですからね。

インタビューを終えて

 29歳で農協理事になり、32歳のとき専務理事に推され、45歳からは組合長として71歳まで活躍された駒口さんは、まさに農協青年部育ち組合長の草分けといっていいだろう。その駒口さんは、自らの経験を踏まえて
 “現代における協同組合運動の役割とは何かをもっと考えてほしい…。効率とか競争を追求すればホリエモンになってしまいます。我々がたたき込まれたのは農協は単なる事業体ではなく組織体であり、運動体である、3つをちゃんとするということでした。”
と、青年部の盟友に注文する。“今こそ協同組合の助け合い精神を声高らかに訴えるべきです”という駒口さんの話を聞きながら、私は“是れ産業組合は本来、組合員間の精神的結合が中心であり、…之あればこそ正直の資本化が可能”となると説き、“寔(まこと)に精神的方面の組合的訓練を忘れては、産業組合は無いも同然なり”と喝破した志村源太郎の言葉を想い出していた。 (梶井)

(2006.3.2)



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