1戸あたり15haという大規模農業が展開されてきた秋田県大潟村。米価の下落が生産者を直撃し村は大きく揺れている。かつて自由化路線の生産者と計画生産を遵守する生産者に分かれていると指摘されたが、この低米価では「みんな負け組ではないか」という。農業政策が生み出した「人工の村」は「モデル農村」といわれたが、坂本進一郎さんは「みんなが農業を大事にする村」をめざしたのだと語る。立正大学の北原克宣准教授と大潟村のこれまでと今後の農政について現地で話し合ってもらった。 |
「モデル農村」とは、農業を大切にする村づくりだった……
◆食管堅持は何のためだったか
|
坂本進一郎さん
|
北原 この特集号のテーマは「日本農業の基本戦略を考える」ですが、それには農政の基本はどうあるべきかが大事だと思います。大潟村はいわばその農政の波に揉まれてきた村だといえるわけですが、まず坂本さんご自身のこれまでの歩みを振り返ってもらえますか。もともと農業とは無縁だったそうですね?
坂本 大学卒業後は北海道東北開発公庫で仕事をしており、そのころ農村から都会にどんどん人が行って農村は荒廃しているという新聞記事ばかりで、これでいいのかという公憤があったところに、母親が満州から引揚後苦労の末、早く亡くなり、自由の身になったこともあったが、一方母親が社会の弱肉強食の中で殺されたという私憤が重なりあって百姓の道へ進もうと決意しました。それからいろいろあって、大潟村に漂着した、という感じを持ってます。
北原 昭和44年に第四次入植者として村に来て、1年間、技術訓練を受けて46年から営農を開始したわけですね。
坂本 当時、大潟村は殿様農業とか、おしきせ農業と言われて、私はお坊ちゃん農業とからかわれた。入植者は政府の敷いた路線を走っていれば食えたから。カタボケだ、とも言われました。
北原 カタボケ?
坂本 大潟村の潟をとって、潟呆け。苦労もなく決められた路線の上を行っているということです。それでも官民一体でモデル農村をつくるぞ、という雰囲気は村にあった。マスコミもそういう論調でした。
モデル農村といったのは、当時は農地が10haあり機械化されていれば都会との所得均衡が図れるという計算があったから。ところが私が入植した当時、開田抑制通達が出て、入植事業は第4次でストップ。それまでに開田抑制のため棚上げされた農地を入植者間の格差是正を兼ねて5ha増反して15haずつとした。
ただし、7.5haは転作助成もつかない畑にしなければだめ、米は7.5haだけとなった。
北原 それが青刈り騒動につながっていくわけですね。坂本さんもそのときは過剰作付け派ということですか?
坂本 いや、過剰作付けではなくて、10ha作付けできるという権利を取り戻す運動だった。ところが、国が全量買い上げをしないということだから青刈り騒動が起きた。国に反旗を翻したわけですが、このときはマスコミもわれわれを理解してくれていたと思う。
北原 結局、昭和53年には青刈り、さらにその後は減反を受け入れて、それからはいわゆる減反遵守派ということになるのですね。
坂本 なぜ今まで10haも過剰に作付していたのに減反に従うのかと言われたが、食管制度をつぶさないためには転作を守ろうということでした。食管制度は日本の農政維持のぎりぎりのライン、なくなってしまえば農民は寒風のなかで裸で突っ立つようなもの、市場原理の濁流に呑み込まれて農民自身が見通し立たなくなるんじゃないかと。
そのなかで10ha作付けの権利という足場をつくって、と思ったが、村内はバラバラになって過剰に作付ける人たちが出てきてしまった。
◆農民を分断した農政
|
北原克宣氏
|
北原 農基法は本質的には市場原理を取り入れるということだったと思いますが、農業保護という相反する手法も取り入れており、当時はまだその側面が強かった。食管制度がありながらヤミ米派、過剰作付け派が形成されたのはその矛盾の現れということでしょうか。
坂本 矛盾というか、農民同士に攻防戦をやらせておいて当局は高見の見物、農民を分断したということだと思う。たとえば、最低支持価格をという運動をやろうにもまとまらなかった。逆に過剰作付けして直接販売するグループからは食管法(食糧管理法)は邪魔だと。消費者団体のなかにもうまい米が食いたいんだからルートは短いほうがいいという考えの人も出てきた。
北原 1986年にガット・ウルグアイ・ラウンドが始まって情勢が大きく変わります。そしてウルグアイ・ラウンド合意を経て95年に食糧法が施行された。
坂本 食管堅持でがんばってきたが流れに負けたという感じです。80年代半ばに前川レポートが出されて、それは結局、日本の車と家電を買って下さい、その代わり農業は差し上げます、という話でしょ。その国際化への答えが秋田の中山間地では挙家離村ということ。
90年に自由化反対運動でブリュッセルに行ったとき、全米家族農業者同盟のランドルフ・ノドランドという会長に会った。アメリカの農家も貧乏だと聞いていたので、本当か? と聞くと、農民の1%は大金持ちだが、大半の農民は貧しく私たちと同じように兼業でしのいでいると言う。どうしてかといえば、大恐慌の時、ニューディール政策の一環として制定されたパリティ立法が攻撃されたからだと。その法律というのは、農産物の価格を工業製品とバランスのとれたものにしようというものだったというが、資本主義が元気になって巨大なアグリビジネスが出てくると価格の引き下げが始まったという。それで1200エーカーの農地があっても貧しいのだというので、日本はアメリカの後を追いかけるから、今の「工業に奉仕する農政」のもとでは、きっとそのうちこうなるのではないかと思ったことを覚えています。
◆矛盾が農家を直撃した
北原 食糧法は最初は完全自由化ではなかったわけですが、ヤミ米の路線を認め、みんなその方向で行けという中身でしたね。イレギュラーなものがレギュラーになるきっかけになったといいますか。
坂本 計画外米という名前にもなったし。国とすれば食管遵守派と対立させておく間にこれを通したということでしょう。農基法に食管法が負けた。大潟村では農政がねじれながら自由化にもっていった。
北原 村が農政の矛盾によって翻弄され、結果的に市場原理に立つヤミ米派の路線が勝ったということでしょうか。
坂本 しかし、かつてのヤミ米派が勝ったのかといえば、実際には負けたんじゃないか。これだけ米価が下がるなかで、一旦は勝ったように思えたが、結局は両方とも負け組になりかかっているのが今の大潟村だと思う。
北原 私が大潟村の秋田県立農業短大(当時)に赴任したのがちょうど食糧法施行の年。その後、環境保全プロジェクトなども立ち上がって、それまでの対立を乗り越えて新しい時代へという動きも感じられました。しかし、実際は激化する産地の競争にどんどん巻き込まれていったということですか。
坂本 食っていけないからと産直を始めても、だれかとバッティングすれば値を下げるしかないということになる。
規模拡大だといっても隣の家が倒れたらやれ、という程度の話で政策の支援はないでしょう。今の農政は規模拡大ということを言わないとそもそも財政当局から予算が確保できないという話になっているのではないか。こんな米価では農地を借りても借地料を払えるのかということになってしまう。
農業の位置づけをもう一度議論して
◆農業とは何かを問い続けること
北原 どう農政の戦略を描くべきでしょうか。
坂本 農民としては、農村の環境保全などを訴えながら、何とか産直拡大などで生き延びていこうとすると思います。
ただ、米でいえば最低支持価格の実現という農民が安心できる政策が必要。国の役割がはっきりせず、すべて自己責任になってしまった。規模拡大ばかり言っているが、小規模な農業がつぶれれば水の流れも止まる。これは人間でいえば脳梗塞を起こすことでしょう。都市にとっても大きな問題で都市と農村がもっと結びつかないと駄目だと思いますよ。結局、農業を社会のなかでどう位置づけるかが大事でその議論をしてこなかったと思います。
北原 坂本さんは、そもそも農業を金儲けの手段とすることは違うのではないかというのが原点だと言ってますね。
坂本 何年かやってるうちに凶作も豊作も経験して、これは金儲けじゃなくてお天道様のおかげで暮らしているんだなと。生活即農業であって、ビジネスではないと思うようになったわけです。
北原 今の政策の方向は、食料は輸入も含めてどんな形であれ供給できればいい、そして農業については「経営体」が生き残ればいいという話になっていると私も思います。面としての地域、農村までは考えていない。
坂本 「モデル農村」について国は面積が大きく機械化されているというだけのイメージしかなかったと思う。しかし、われわれはみんなが農業を大切にして、新しい農業体系もつくろうと考えてきたが、ここのところ変化のテンポが速く、米価も下がってくると余裕がなくなってどういう暮らしをすれば農民らしいのか考えることも難しくなっている。周辺の村も空洞化してます。
北原 坂本さんが原点とした農業をもとに、どう食料をつくりどう食べてもらうか、国として食料供給もきちんと見据えた基本政策が問われていると思います。
インタビューを終えて
大潟村を訪問したのは、奇しくも諫早湾干拓事業の完工式を告げるニュースが報道された一週間後だった。同事業が様々な批判を浴びたのに対し、八郎潟干拓事業は、食糧増産という大義名分が国民に対してまだ十分な説得力を持ちえていた時代に計画され実現された。しかし、それは同時に、この村に「農政の申し子」として政策に翻弄されることを運命づけることにもなった。
私が大潟村にあった秋田県立農業短期大学(現・秋田県立大学)に奉職したのは、1995年から2004年までの8年半であった。当時、大潟村は転換期を迎えていた。減反をめぐる対立は、まだ至る所にしこりを残していたが、それ以上に、20代から40代前半の若い後継者が経営者としての実力をつけ始めていたのである。そして、彼らは、減反をめぐる対立を乗り越えた新しい経営のあり方に関心を寄せており、彼らの存在が「大潟村環境保全型農業プロジェクト」や「大潟村環境創造21」など、新しい協力関係を築こうとする胎動を生み出す原動力となっていた。食糧法への移行は、「減反順守派」には大きな不安をともなって、「ヤミ米派」には大いなる期待を込めて受け止められていたが、ともあれ、新しい時代に向けての地殻変動が始まっていた。
しかし、この時期の変化を間近で見ていた私にとって、NHKスペシャルや『読売ウイークリー』で、坂本進一郎さんが多額の負債を抱えていることが報道されたのは衝撃であった。実は、私が大潟村にいた当時から、多額の負債を抱える農家の存在や米価下落による経営の行き詰まりを懸念する関係者は多かった。しかし、まさか「減反順守派」の代表的人物でもあり、経営的にも決して問題があるようには思えなかった坂本さんが、このような状況に追い込まれていたことに事態の深刻さを感じざるを得なかった。
今回のインタビューでは、この問題には踏み込まなかったが、坂本さんの負債の原因は、産直販売にともなう乾燥機や精米機などの機械装備への投資である。しかし、ここで生じている問題は、坂本さん個人の経営者としての力量の問題ではなく、農政の基本理念なのだと思う。農政により二分された大潟村では、いま両派とも苦境に立たされている。「いずれも負け組になりかかっている」という坂本さんの指摘は重い。いまの農政が守ろうとしているものは、いったい何なのか。あらためて問わなければならない。(北原)
|
|