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コラム 大宇宙・小宇宙
明暦大火の秘め事

 江戸時代の「三大火事」の一つ明暦大火は、三省堂の大辞林によると「明暦三年正月一八日、本郷本妙寺から出火して、翌日にかけて江戸城を含む府内のほぼ6割を焼失、死者10万人余を出した江戸最大の火事。この後、江戸の都市計画が進められた。振袖火事」と出ている。
 振袖火事といわれたゆえんは、恋わずらいで亡くなった娘を不憫に思った親が、本妙寺で読経供養の後、生前一番愛していた振袖を燃やしたところ、折からの強風で舞いあがり、本堂の屋根に燃え移ったことによる。
 ところが、昨年末新聞で本妙寺が「火元の言い伝えは誤解」と訴えた小冊子を出したとの記事を見た。
 現在の本妙寺は、豊島区の染井霊園の近くにあるが、ある日、寺を訪ねたところ本堂の横に、明暦の大火と、安政地震の2つの供養塔があった。
 寺務所でいただいた冊子によると「火元は本妙寺」という通説に対し、宗門内では、つとにそれを否定する指摘があったが、今回、外に向けて大火の真相を積極的に訴えることにしたとある。
 本寺の由来をさかのぼると、徳川家発祥の岡崎に所在する古刹につながり、そのゆかりで山号も「徳栄山」と徳川家が栄えるようにとの願いが込められている。
 寺は家康のその後の居城浜松から江戸に移り、府内を転々としながら、最終的に本郷丸山(地図で見るように現在の東大赤門の近く)に落ち着き、明治43年まで所在した。
 丸山に移って間もなく、例の大火で全焼したが、地図によると本妙寺に隣接した北西部に「阿部伊豫守」の中屋敷があり、当時は老中の阿部忠秋が住んでいた。
 火の手があがった当日は朝から北風が吹き荒れ、阿部家では雨戸を閉めたままであった。このため屋敷内は暗く、女中が火のついた手燭を持って歩いていたが、転倒し、火が障子に燃え移り、大火に及んだという。
 老中宅が火元とあっては、その責任は重く幕藩体制が揺ぎかねないし、市内の復興計画にも支障が出てくる。そこで、筆頭老中松平伊豆守信綱や、久世大和守、当事者の阿部伊豫守の3老中が一体となって協議した。
 その結果、幕府側から阿部家の風下にあり、徳川家と縁も深く、久世家が檀家ともなっている本妙寺に、失火の汚名を着るよう要請した。寺側も「大義」に殉じてそれを承知した。
 その代償として、火元として厳罰に処せられることもなく。さらに、以降260余年にわたり、本寺に対し、阿部家からは回向供養料が出された。
 江戸時代とはいえ、「火元は阿部家だ」という噂が広がらなかったのは不思議に思えるが、幕府側がいち早く「火元は本妙寺」という話しを流布したことと、阿部家に関する情報が一切秘匿され、寺側も全員が汚名を着ることに協力したからであろう。
 知恵者松平信綱の指揮のもとで遂行された明暦大火の秘め事は、彼の思惑どおり、ほぼ350年たった今でも、辞書に「火元は本妙寺」と書かれており、事の良否は別として、彼や寺などの対応ぶりは見事である。
 それに引きかえ、昨今の政官民は、「秘め事」 が露見する都度、取り繕うのに右往左往して醜態を演じており、なんだか情けなくなってくる。        (MMC)



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