19世紀後半に、ドイツやイギリスで勃興した協同組合運動に先立つこと半世紀前、日本では2人の先覚者により、協同組合の先駆的な運動が展開されている。
その2人とは「報徳社」運動の二宮尊徳であり、「先祖株組合」運動の大原幽学である。
ただし、2人の最後は明暗を異にし、尊徳が幕府の御普役格にまで取り立てられたのに対し、幽学は、体制側の弾圧を受け、先祖株組合の解散を命ぜられ、失意のうちに自殺している。
幽学は1797年(寛政9年)に、尾張藩の家老の家に生まれたとされ、18歳のとき故あって家を出た。
以後、放浪中に様々な学問を身につけている。京都で典故、観相それに歌道、高野山で佛教、近江国松尾寺の提宗和尚に易学、宗学を、また周防では神学を修得している。
さらに、大阪では商家から経営を、また篤農家を訪ね、先進的な農業技術を実体験している。こういったマルチタレント的な素養が後日、遠く離れた下総の地で花開いた。
1830年34歳のとき、生涯でただ1人師と仰いだ提宗和尚にさとされ、経世済民のため世に道を施すことを誓った。
近江をあとにして、信州上田・小諸、房総などを経て下総に入り、各地で門人をとり講話を始めた。
江戸末期は商品経済が浸透して、農村でも貨幣の必要が高まり、重税と相まって、土地を手放し離村する農民が増加した。
長部村(現干潟町)も例外ではなく、このような状況を打開したいと悩んでいた名主の遠藤伊兵衛は、たまたま隣村で幽学の講話を聴き、大きな感銘を受けた。
そこで伊兵衛は幽学に村の建て直しを懇願したところ、その熱意に動かされた彼は長部村に居を構え、終世この地に留まった。
彼の思想の中心は儒学の考え方で、人間が本来持つ性(良心)に従って生きるのが道であり、この道にすすむための教えを「性学」と名付けた。
物心両面で荒れ果てた農村を直すには、農業や農家経営の改善策を講ずるとともに、この性学を指導の中心に据えた。そして農家を巡りながら、炉端で農民と対話を重ねて、分かり易くこの教えを説いた。
農民が土地を失うのを協同の力で防ごうと、36年に共有財産制ををうたった「子孫永々相続講」を作った。先祖株組合の始まりである。
加入者は所有地のうち5両相当(田1段歩)の土地を出資し、共有管理しこれから生ずる利益(作徳米)を積立て、組合員が質地を受け戻せない際は、組合が立て替え受け戻し、組合員が土地を失うのを防いだ。最終的に長部村の全戸が加入した。
その他、農地の交換分合、耕地整理、農事予定表の作成、田植えの改善等を行ったほか肥料、生活必需品の共同購買を実施、まさに現在の農協の信用、購買、指導事業に匹敵するものであった。
一介の浪人が他国にきて、これだけのことをなし得たのは、彼の農業等についての先進的な知識が、農民の信頼をかち得たことが大きかったにしても、性学に基づく彼の信条と、真摯で親しみ易い人柄によるものであろう。
そして、村は見事に再生され、48年には領主の清水氏から、長部村は表彰された。
しかし、52年2月に関東取締役、8月に幕府勘定奉行所の取調を受け、57年に、性学の道場「改心樓」の取り壊し、先祖株組合の解散、幽学に対し百日の押込めなどの裁決が出た。
農民にも不似合いな改心樓の建築、不学でありながらの勝手な教え、領主の管理分野に関与し、先祖株組合を作ったことなどが咎められた。
その後、村に戻った幽学は、荒れ果てて元の姿の戻ってしまった村を見て落胆し、自分のしたことの空しさと、門人たちに迷惑をかけた自責の念にかられ、58年3月8日、武士の作法に則り切腹して果てた。享年62歳であった。
自刃に用いた短刀には「難舎者義也」(捨て難きは義なり)の文字が刻まれていたが、死後も、性学の教えは門人によって受け継がれた。
この24日に、協同組合懇話会の有志は、千葉県干潟町長部所在の大原幽学遺跡公園を訪ね、その偉業を偲ぶ。 (MMC)