現代生協論は、とかくして流通産業の一角として論じられやすい。スーパーをはじめ、小売り流通は戦国時代のように勢力争いがあり、不況の時代に入った今日、目を離せないからだ。つまり再び合従連衡の時代に入った。流通業界には、新た覇権を目指した新勢力が登場する。だが生協はスーパーや一般小売業とは違う。それはどこにあるのか。事業を支える運動、その理念づくりの組合員参加である。事業理念はどんな業態でもあるではないかとの反論があろう。
本書の特徴の第1は、今日脚光を浴びる生協パルシステムグループの創業期リーダーの激白であり、半世紀の生々しい物語である。
率直且つ直裁――。生協関係の類書にないものだ。戦後1948年の生協新法以来の60年強の歴史であるから、そこに多くの運動があった。「パルシステム」はとりわけ独特で、不思議なネーミングでもある。それだけ読めば、普通の小売業とあまり変わりない。本書によって1970年代創造期から、首都圏の小さな生協群が、日本生協連本部から、目もかけられず、疎んぜられた。むしろそれをバネにして30年かかって、大勢力にしてきた跡を学ぶことができる。「異端派生協」という自己規定が意味深長である。1950年代末の早稲田大学学生運動に参加した時代からの生協運動参加だからである。
特徴の第2。要するに「個配事業」の創造物語である。だがどこか違う。『リーダースダイジェスト』という月刊誌は1950年代、家庭配送によって読者を増やした。1970代、夕食惣菜宅配業が開発された。内職とか妊婦など店舗利用がなかなかできない消費者に支持層を広げた。今やネット時代のさまざまな通信宅配業態開発時代である。
だが本書は、こういう無店舗業態開発との根本的違いを明らかにする。班という生協神話の後退を打破したことだ。日本の「班」活動は、世界規模で都市化した無味乾燥の地域社会がコミュニケーションを回復し、物流を合理的し、予約によって消費生活の計画化し、さらに生産の共同化に結びつけられるという。
それが1980年代後半急激に機能不全に陥ったのだった。著者らは、大胆に個人宅配業という生協運動に挑戦した。だから多くの批判が内外に起きた。個人注文書の手書き集計からOCR(光学読み取り)による大量処理とか、集出荷の機械処理システムの導入などにも触れる。簡単なことではなかったことが判る。しかも、これは班配達方式の原則をどの程度柔軟にするかという多くの生協の課題でもある。
第3の特徴。それは副題そのもの「生協は格差社会の共犯者か」である。今後の生協運動の展望論である。経済不況の深化によって、かつての消費不況の再来である。生協は経済的弱者に、もっと目を注げという問題提起である。そもそも戦後混乱のなか、生活防衛から始まったのが生協運動だから、当然ともいえる。そのために各生協がもっている様々なインフラを開放交流せよという。論争を呼ぶ問題提起だ。
最後に1つ。著者は冒頭から日本の生協運動の「左翼体質」に触れる。多くの証言もある。論点が本書に溢れてもいる。論争の書たる所以である。