一〇〇年に一度という不況の到来が世界経済を震撼させ、様々な再生の挑戦が試みられている。多くの人は今や市場経済万能に期待しない。そういう時代風景だからこそ、日本農業の再生を願う政策提起も熱を帯びる。不思議な時代でもある。そういう時代に本書が出版された。著者はどっぷりとその渦中で発言する。法政大学経済学部教授で日本経済論担当という専門分野が、単純な日本農業再生論でない深みを一層際立たせる。
研究会で同席し、論議することもあった。だからそれなりに身近ではある。しかも、〇六年出版時は、大胆な時代分析をしたから、いくつかの反論があった。よく言えば理論武装をしてなお無防備。主として社会改革を担う主体として、NPO組織、生協など「社会的企業」に注目した議論展開だから、止むを得まい。
◆社会連帯の経済体制を説く
その上で、今回の出版は、論争に答えるとして、敢えて増補改訂部分を「増補編」として、冒頭にした。続いて堂々たる「本編」である。全体で四〇〇頁強。著者の熱気に溢れている。次代を牽引する「社会的企業」への期待からであろう。
さて、本書の結論は「増補編」にある。序章「社会的・連帯経済体制の可能性」である。つまりヨーロッパ出自の「社会的企業」の実践過程を踏まえ、単にヨーロッパではない、「社会的・連帯経済体制のローカル・ナショナル・グローバルに重層する体制像」を描くことだとする。そこでの「市民的公共性」は「多文化市民的公共性」というキーワードで、それを可能にするという。そのために何人かの所論を活用して、図式化する。つまり理論的挑戦である。それによって、今まで以上に判りやすくなった。そういう経済学の理論家は珍しい。
◆生産者・消費者交流の課題が見える
以下感想を記す。第一に、現実の生協運動は日本で見るかぎり、生き残り必死の事業展開である。
国際流通資本の日本上陸と大手スーパーの価格競争激化に否応なしに巻き込まれるからである。そういう背景があれば、日本農業の将来など優先順位を持ちようがないのだ。昨年の中国製冷凍餃子事件以来、日本生協連も多くの見直しに入った。その分だけ、国産農産物の産直事業への部分回帰はある。そういう傾向が、「社会的・連帯経済体制」として意図的に理論化する作業に入るかどうか、はるか遠いように思える。
第二。著者のいう「多文化公共性」は、全地球的な意味合いを含んでいる。多言語空間でのコミュニケーションの可能性という意味である。島国に生活し、著者のように、国際会議で論争する機会のない多くの人は、この「多文化公共性」にややなじみづらい。今、それを国内の消費者・生産者交流に置いて見る。そこで「食育」問題に例がとれる。とかく話題は抽象化し、実践はあいまいになる事例が多い。世代間の食体験の違いが、世代をつなぐ「あいだ」をつくりきれない。だから一週間4回米粉パン導入などがニュースになって飛び交う事態になる。
時間・場所・対話を惜しまない努力が求められるのに、成功しないのである。米減反への対応など、食育を超えて、究極の難問になる訳だ。「公共空間」論が空しい。
第三。これはもっぱら理論問題だが、一九九〇年代、マルクス主義主導国家の崩壊現象のあと、今度はグローバリズム自由経済体制のゆらぎである。いわば理論空白と言ってよい。だからこそ、著者が本編で展開する経済学再考が意味を持つ。有名な「宇野理論」についての言及も、余技の類と切り捨てない真摯さに学びたい。