農学者として初のノーベル賞
本書のタイトルは、The Man Who Fed the World、ずばり世界を飢餓から救った男である。
米国オハイオ州の平凡な農村少年が農学者として初めてノーベル賞(1970年)を受賞するまで、更にその後、栄光に埋もれることなく不屈の精神をもって全世界をかけめぐり人類の飢餓撲滅のため戦った男、ノーマン・ボーローグ博士の壮大な物語である。
著者はレオン・ヘッサー。1960年代からのボーローグの友人でパキスタンにおいて同国の飢餓状態を改善するため博士とともに「高収量型小麦」の栽培の指導に当たった。その後、インドでも協力、小麦革命を起こした。
さらに本書の監訳を担当した岩永勝博士は(独法)農業・食品産業技術総合研究機構作物研究所長の要職にある。大学農学部に入学した年にボーローグのノーベル平和賞受賞に大いに啓発され、同じ品種改良の途を歩む。米国の国際トウモロコシ、小麦改良センターの所長として2002年より6年間在職。
このCIMMYTの所長相談役にあった博士と家族ぐるみのつきあいが始まり、ボーローグの家族愛、特に奥さんのマーガレットとの夫婦愛を身近に知る。日常生活を通してボーローグの人類を食料危機から救おうとする不屈の精神を見る。巻末の監訳者のあとがきを必読されたい。
ボーローグは大学で博士号を取得した後、しばらくデュポン杜で働いたが1940年代、ロックフェラー財団ステークマン博士の強力な推薦で、メキシコ食料危機対策に取り組む。
ここで画期的な小麦育種プログラムを作る。遺伝学、品種改良、植物病理学。昆虫学、土壌学、農業経済学、穀物技術の広い領域で「高収量小麦」の改良に取り組み、見事に成功し、全世界にノーマン・ボーローグの名は知れ渡った。
徹底した現場主義。ボーローグはメキシコを初めアジア、パキスタン、インド、アフリカと世界の大陸で活動したが、朝から日没まで圃揚で研究し続けた。
若い研究者が研究室に閉じこもると大声を発して圃場での研究を指導したと言う。それぞれの国で土壌、天侯、植生、動物と対話しながら研究を続けた。
この真摯な態度が有為な研究者を世界中で生み出したと言える。
ボーローグは大変な親日家であった。日本との係わり合いを少し紹介しよう。
先ず、緑の革命の主役になった高収量小麦、品種育成に日本の小麦品種「農林10号」を使い、これが成功の大きなきっかけとなった(岩永氏)ということである。日本人として誇りに思う。
博士が引退を考えていた折、アフリカの食料危機がきわめて深刻な状態になった。この時、日本財団(日本船舶振興会)の笹川良一氏がボーローグに会い、「共に力を合わせてアフリカの飢餓撲滅対策に取り組もう」と申し入れた。
ボーローグは高齢を理由に固辞したが、笹川氏はあきらめなかった。再度の会談で先生より私の方が13歳年上ですと説得し、「笹川グローバル2000」が始まる。博士の老いの熱情にうたれ、各国の農業普及機関が協力し、米国からジミー・カーター元大統領が運動に参画した。ボーローグ博士は本年9月に永眠したが世界中からその貢献を讃える声が澎湃として沸き起こった。むべなるかなである。人類はかけがえのない財産を失った。