日本も東アジア共同体の構築を
◆二つの先例に学ぶ
わが国の農業危機と食料自給率の低下、韓国食料のアメリカ依存、飢餓に苦しむ北朝鮮国民、中国の穀物輸入大国化、そして世界的な食料需給のひっ迫がすう勢となっていること……、これらの現実を冷静に判断しなければなりません。
わが国はTPPでさらなる農産物市場開放に進むような愚策を選択する余裕はないのであって、食料安全保障のための東アジア諸国間の連携を強化し、将来の「東アジア共同体」に向けての地道な国際協力こそが求められます。
自由貿易と農業の共存については悲観的な考えが支配的ですが、国際社会はそれを可能にした先例をもっています。
ひとつは、以下に紹介する欧州経済共同体の関税同盟と加盟国農業の共存であり、いまひとつは、北米自由貿易協定を結びながらアメリカに抵抗して農産物マーケティングボードと需給管理を維持しているカナダです。今回は、欧州共同体を、8月10日号では、カナダを紹介します。
◆なぜ、欧州は統合をめざしたか?
西欧諸国は第2次世界大戦後、悲惨な戦争を再び起こすことのない欧州をめざそうと、新しい秩序をめざす努力を重ねました。
そのスタートになったのが、ドイツとフランスが資源をめぐって争わない体制をつくることでした。それが実を結んだのが、石炭と鉄鋼の効率の良い生産と合理的な配分をめざす「欧州石炭鉄鋼共同体」の設立(1952年)です。フランス、旧西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギーおよびルクセンブルクの6か国が加盟しました。 そして、この共同体の成功が加盟国を励まし、他の分野でも統合を進めようということで1957年3月にこの6か国が調印し、翌58年1月に発効したのが、欧州経済共同体を設立する「欧州経済共同体条約」(EEC条約)だったのです。これと同時に発効した「欧州原子力共同体条約」といっしょに「ローマ条約」ともいわれます。1967年には、諸機関の統一を機に、「欧州共同体」(EC)とよばれるようになりました。
その後、73年にはイギリス、デンマーク、アイルランドの3か国が加盟し、80年代にはギリシャ、スペイン、ポルトガルの加盟で、12か国のEC、さらに90年代以降東欧諸国の加盟で、現在では27か国が加盟する欧州連合(EU)となっています。
(写真)イタリアの原産地証明チーズ・パルミジャーノ・レッジャーノ(これから2年間の熟成が始まる)
◆農業共同市場の設立がめざしたこと
さて、EECの目的は、共同市場を設立することで、加盟国経済の調和的発展、加盟国国民生活の向上、加盟国間の関係の緊密化を実現することにあるとされました。
そして、これらの目的を実現するために、すでにオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの3か国(ベネルックス3国といいます)の間で実現していた関税同盟を6か国に広げ、すなわち、
[1]域内における関税および数量制限の廃止、域外に対する共通関税の設定など、これを「関税同盟」といいますが、これを基礎に、
[2]人、役務および資本の自由移動、通商、農業、運輸ならびに競争の各分野における「共通政策」を実施してきました。関税同盟の完成には12年から15年の期間をかけるものでした。
EECがめざす共同市場の設立は、農業分野でもっとも明確な姿をとりました。というのも、EEC設立をリードしたフランスとドイツの政府と経済界には、工業分野で優位にたつドイツの独占企業にEEC設立が与える利益に見合うだけの利益を、欧州最大の農業国であるフランスの農業部門にも与えるという政治的バランスの必要性が認識されていたことがありました。
◆「農業の保護」が共通の視点
さて、域内自由貿易と域外貿易で共通措置のとられる農業共同市場の運営と進展は、加盟国間(域内)の共通農業政策(CAP)の樹立によるものとされました。
CAPの目的は、以下のとおりでした。
(a)農業生産性の向上
(b)農業従事者の所得向上による公正な生活水準の確保
(c)農産物市場の安定
(d)供給の安定確保
(e)消費者に対する安定的で適正な価格の確保
注意すべきは、現代のFTAやEPAが強制するような加盟国間の農業国際分業を促進するといった目的はCAPにはなかったということです。
ドイツやイタリアでは戦後の食糧難の記憶がまだ鮮明でしたし、旧西ドイツは東ドイツの穀倉地帯を失っていましたから、EECは農業国フランスの穀物の存在が食料安全保障を担保するものの、ドイツやイタリアの農業生産性や農業者所得の向上もCAPの目的にしっかり取り込まれていたのです。
そして、CAPの目的を実現するために採用されたのが、域内生産者の生産費を償える生産者価格になるように、域内全体に農産物の統一価格制度をつくることでした。このような農業共同市場づくりは1967年にほぼ完成をみますが、そのポイントは以下にありました。
(写真)パルミジャーノ・レッジャーノの協同工場
◆中小生産者を守るEU
第一に、農業共同市場は、フランスやドイツの戦前来の農産物価格支持政策を中心にした農業保護政策を引き継ぐことを保証したものでした。だからこそ、EEC設立に各国の農業陣営の賛成を得られたのです。農産物価格支持方式は、フランスの人民戦線政府(1936年)の農産物卸売価格支持方式を踏襲しています。したがって、畜産保護は、生乳や生畜ではなく、乳製品(バター・チーズ)や食肉の卸売価格が支持されます。
そして、目標とする卸売価格(「指標価格」)を維持するために、それより数パーセント低い「介入価格」(最低保証価格)によって当局が無制限に生産者から買い入れます。
そして、1960年代に順次実施されていく価格支持は、経営規模が大きく生産性の高いフランスではなく、ドイツやイタリアの中小生産者の生産費を基準にした「指標価格」となったのです。ここを見落としてはなりません。
第二に、穀物、バター・チーズ、牛肉、オリーブ油など、域外、とくにアメリカとの競争にさらされる農産物については、域外からの低価格輸入で指標価格が低下しないように、「境界価格」(指標価格から輸入港からの域内輸送費を差し引いた価格)を設定し、境界価格以下の輸入には関税に加えて可変課徴金を加えて輸入を阻止しました(「域内優先原則」といいます)。
域外からの輸入を阻止するための輸入課徴金はオランダの先例を受け継いだとされています。図をみれば、CAPの価格支持制度がよくわかります。
この農業共同市場づくりを危惧し圧力を加えてきたのが、欧州穀物市場への最大の輸出国アメリカでした。
ガットの第5回多角的貿易交渉(ディロン・ラウンド・1960〜62年)で、アメリカはCAPがアメリカ産穀物を欧州から締め出すことのないように圧力を加えたのです。しかし、当時は冷戦体制で、アメリカは対ソ連・東欧との対抗上、EEC加盟国の経済力の強化を望まざるをえませんでした。アメリカは、可変課徴金を認める代わりに、欧州では生産の少なかった油糧種子(主に大豆)と一部の飼料穀物代替品(コーン・グルテンなど)とを域内優先原則から外させることで妥協せざるをえませんでした。
これは、後にEUが穀物過剰生産に直面するなかで、穀物を減反し大豆栽培に耕地を振り向けることを困難にする問題を生み出しますが、わが国がコメ以外の穀物市場をすべてアメリカに投げ出すといった従属的なものではありませんでした。
こうして、ガット体制のもとでの貿易大国の参加する最初の本格的自由貿易協定となったEECは、加盟国間の関税撤廃を進めながら、(1)域外(アメリカ)からの輸入を域内(フランス)からの輸入に転換しつつ、(2)加盟国それぞれの農業の存続と成長を可能にするシステムをつくりだすことができたのです。