装幀(デザイン)した本の著者からの依頼で、奈良大学の招聘講師として学生たちの前で話すこととなりました。その準備の中で、日本近代史の鹿野政直先生の『婦人・女性・おんな―女性史の問い』(岩波新書)に目を通していましたら、「女性史を見なおす」という題の章に「須恵村の女たち」という小見出しを見付けました。前回紹介したわたくしの装幀本『須恵村、1935〜1985』(日本経済評論社)に繋がる内容でした。シカゴ大学から派遣された人類学者のジョン・エンブリー氏と妻のエラさんが須恵村に住みこんでの調査の中で、いきいきと自己主張し好奇心をもって暮らす村の女性の様子は『日本の村落社会―須恵村』(関書院・1955年)にも鮮やかに描かれてあるとの由。
◆大学祭実行委員長になる
奈良大学の授業ではわたくしが装幀者になったいきさつから、仕事の内容やデザインの方法について語ります。前出の鹿野先生は、わたくしが女子大の2年生で実行委員長になったときに、「明治の女たち」と題して講演して頂きました。'70年に開校百周年をむかえていたミッションスクールです。
3年生の先輩が突然、放棄した仕事の後を引き受けて、立て直した企画のひとつ。他に、資源配分や生命再生産の理論、家庭論の経済学者大熊信行先生。アジア女性交流史や映画化された『サンダカン八番娼館』の著者山崎朋子さんを招きました。当時、早稲田大学に在学していた兄の助言を受けての企画は、その後のわたくしの人生を一変してしまいます。
◆家を出る
兄とわたくしは、富山県魚津市の父の元を離れ小学生半ばより、母の実家での東京暮らし。結核で母が入院したためですが、没後もそのまま…、祖母と叔母たちのもとで。学生運動をしていた兄が、叔母たちの反感を買い家を出ることに。便乗してわたくしも。4人の叔母は戦争で適齢期の男たちが多く死んでいるために結婚できずに独身。末の叔母をのぞいて職業人として定年まで仕事を全う、現在に至っています。たった一人の姪には幸せな結婚を…と、いろいろに心を尽くしてくれましたが、わたくしは叔母たちを尊敬しておりましたので、仕事への道を。
◆戦争への道は許さない。
本紙10月30日号でのルポライター鎌田慧さんの『橋の上の「殺意」畠山鈴香はどう裁かれたか』(平凡社)の書評の中で書いたように、わたくしは軍人の娘。
母は軍属であるからこそ満州からの引き揚げが早かったのではないか…。生きて父も母も帰還したからこそのわたくしという存在。戦後の2人は、戦争を検証しつつの生き方を示してくれました。わたくしもまた、敬愛する評論家吉武輝子さん同様に、戦争への旗はふらない、戦争への道は許さない確固たる存在を目指します。いのちの糧を育む皆さまと共に。