ヨーロッパは東方ルーマニアのヤシ市という人口35万人の都会からわずか25キロの郊外は緑豊かな絵はがきになるような美しい農村である。信号のない道路は丘や森を越えて平原に続く。120キロぐらいのスピードで車は走り抜けてゆくが、側道には農業用の2頭立ての馬車がゆっくりのようだが、ぱかぱか小走りに通る。道路脇に添ってペンションが点在し、その中のひとつ「クワトロ・ロッテ」(四輪車)という農家兼用のペンションに日本人3人が宿泊した。1人50万レイ(約2000円)が朝食込みの値段である。2棟の宿泊施設があり10組ほどは泊れそうだ。敷地は2ヘクタールほど。レストランも経営している。裏庭には鳥小屋があり、鶏とアヒルが共存、ざっと100羽は放し飼いで飼われている。犬には首輪がなく5〜6頭別々の犬小屋に納まっている。
ブドウの畑とバラの樹が晩秋を迎えて萎んできている。革命直後の1995年にペンションを創業したという女主人は、資産が増えると同時に体重も増してきたらしい。明るい性格で相撲取りのように肥っている。農業普及員マリウス君(37歳)の案内で付近を散歩した。5分も歩くと耕作放棄されたリンゴ園の横道に来た。これがルーマニア農業の実態ですよと悲しそうに説明してくれた。25ヘクタールのリンゴ園の木は整然と立ち並んでいるが、リンゴの収穫時期だというのに実をつけた木はほとんどない。葉っぱの繁みに一個だけ赤い実をつけたリンゴを見つけた。もいで手に取ると病害虫にやられて食べられるものではない。作業しやすいようにリンゴの木は枝や幹が若木で切られて矮小化されている、近代技術を導入したはずが、手入れされずに放っておかれると、無駄な徒長枝が伸びて実をつけられないのだろう。6万本のリンゴの木が放置されたままだ。この地区担当の農業普及員マリウス君はいたたまれずに今までに何度も農家と果樹園再生について話し合いを持ったという。もともとこのリンゴ園はCAP(ソホーズ・集団農場)で10年間は生産が続いていた。リンゴは海外に輸出されていたともいう。
1989年ルーマニアは共産党政権が倒れて、政治システムが民主化されると集団農場(CAP)は解散した。土地は旧地主とCAPの労働者に分配された。土地の細分化から難問題が発生する。地域リーダーの欠如で農家がまとまらない。病害虫駆除と予防のお金を払う人がいない。雑草を取る人がいない。実のならないリンゴ園は村長さんが個々の土地所有者から買い上げ、農地が欲しいという農民には代替地を斡旋して、3万5000ドル(約420万円)で資本家に転売した。数年して12万5000ドル(約1500万円)になり、土地代だけで今ではその倍の値段になっているかも知れないという。
だが、リンゴの実はならない。リンゴ園として再生させるには、サンジョセという病気が木の中まで浸透し、蘇生させるには遅すぎると専門家はみる。ゴールデンとイオナレッド、スタークミンソンのりんごの樹齢は18年になる。5年前だったら再生の可能性があり、5〜6年はリンゴ園として経営できたのにとマリウス君は悔しがる。
このような肥沃な農地がルーマニアにはたくさんある。しかし、再開のための資金がない。日本人の感覚なら坪300円の果樹園なら安い。日本の栽培技術と肥料・農薬・農業機械でなんとか蘇生できないものか。我々も頭を抱え歯ぎしりしている。