台湾の観光地九分市(ジュウフエン市)へ旅した。台北市から日帰りできる。台湾は日本よりほぼ一ヶ月半春の来るのが速い。桜が咲いて散るのは2月中旬である。今の季節ツツジの花が真っ盛りの山岳地帯にある。もとは九家族しか住んでいなかったので食料品を共同で買出して九軒で分けていたから九分市の地名になったという。
日本が台湾を統治していた1895年、そこに金鉱脈が発見されて九分市は大発展をとげる。ゴールドラッシュ。一攫千金を夢見た人々が九分市周辺に集った。九家族の静かな地域は人口4万人まで膨れ上がった。道路がつくられ、鉱石を運ぶ鉄道が敷かれ、一時はリトル上海と呼ばれる繁栄ぶりであった。
金鉱開発から50年後の1945年敗戦で、日本は台湾から撤退し、鉱山を引き継いだ台湾政府は1950年代には金の採掘を終了した。この時、人口は3000人まで激減した。しかし、現在は観光都市として再生している。
桜は日本から九分市へ持ってきて植えたもの。桜の咲く頃がもっとも観光客でにぎわう。石段も、茶店も狭い街並みも日本の観光地に似ている。山の中腹から海を見下ろす風景は日本の港町にそっくり。案内してくれた台湾人に、ここは日本人観光客が多いからお土産品は2〜3割高いよとささやかれた。バナナ菓子などは目の前で手づくりででき上がっていく。お茶屋に入ればお汁粉がでる。日本人として古き良き郷愁を覚える。
金鉱山に感謝してお寺を建立した。それも観光資源になっている。とりわけ、映画「非情城市」の舞台となってから観光客が押し寄せる。台湾には「ハーリーズ」合日族という言葉がある――日本大好きの台湾人をいう。日本へ行った事があるかと聞くのはだめ、何回日本へ行ったか、何処へ行ったか、何しに日本へ行ったかと突っ込んで聞かないと失礼になるらしい。
日本に10年は遅れていたという台湾は、追いつけ追い越せで、日本が不況とデフレで苦しんだ最近10年間に生活水準の差がなくなっている。台湾の若者は車、洗濯機、パソコン、テレビ、携帯電話などハイテク生活必需品は日本以上に持っている。女性も働くダブルインカムの台湾の習慣が生活を豊かにさせているのだという。
陳総統は豊かな台湾をベースに「中国の脅威」「台湾独立志向」を説くが、野党の国民党は中国から人も物資も流れ込む方がさらに台湾の繁栄につながるはずと意見が異なる。視察に来た中国大陸の役人が日本の開発した台湾北投の温泉に浸かり熱い!と叫んだらしい。日本は台湾にお茶や米づくりを教えた。現在日本は中国に工業製品の作り方を教えている。その結果、中国産の安い製品が日本へ輸出され、日本の中小企業や農家は苦しい立場だ。アジアと付き合うのは奥が深い。(金右衛門)