コラム

「正義派の農政論」

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【森島 賢】
原発は信玄に学べ

 奇異な表題にみえるかもしれない。信玄とは、川中島の戦いで有名な、甲斐の国の大名だった武田信玄のことである。信玄は、いまこそ原発が学ぶべき防災思想を持っていた。
 信玄は、暴れ川といわれる釜無川の洪水に悩み、洪水を力ずくで制圧するのではなく、うまく制御して水を治めた。そうして国を治めた。
 その1つの方法に、霞提がある。洪水を無理やり川の中に押し込んで海に流すのではなく、堤防の一部をあらかじめ切っておいて、洪水のばあい、一部を今でいう遊水地に誘導して、そのあと徐々に川に戻す、という治水の方法を採って、水を治めた。その功績を讃え、霞提は信玄堤ともいわれている。
 この防災思想には、想定外の災害はない。そして、原発の僅か60年程度の歴史と違い、450年の歴史的な検証に耐えてきた。
 原発事故で、政府はその原因は想定外の地震だ、といっているが、政治は結果に全責任を負っている。想定外などという、一部のふやけた官僚的無責任とは縁もゆかりもない筈だ。そうでなければ国は治まらない。

 信玄堤は、60年前に筆者の恩師である、高橋裕先生から教えてもらった。不肖の弟子である筆者には、よく理解できなかったが、原発事故は想定外の地震が原因だ、という政府高官の発言で思い出した。
 日本の治水思想は、明治維新以後、連続堤防方式になった。高い堤防を山から海まで連続して築き、洪水はなるべく早く海に流して捨てる、というものである。そうして流域の水害を軽減する、というものである。
 これには、一定の効果があった。しかし重大な問題もあった。

 問題は、どれほど高い堤防をつくればいいか、という点にある。当初、例えば100年に1度の確率で降る大量の雨を想定して、堤防の高さを決めるとしよう。だが、数年後にはその堤防を越える洪水になって水害になる。遊水地がなくなったので、降雨がすべて川に入ることが大きな原因である。上流の土砂が川底に堆積して、いわゆる天井川になることも原因である。
 そこで、100年ではなく、200年に1度の豪雨を想定して、堤防をかさ上げして高くする。それでも、やがて堤防を越える洪水になって水害になる。それでは・・・となって、きりがない。
 このように、連続堤防という考えは、治水理論として、治水思想として不完全なのである。現実的には、堤防を作るコストも考えねばならない、という問題もある。
 先生は、第2次大戦後の度重なった水害の原因が、この連続堤防という治水思想にあることを指摘した。そして、想定外の豪雨になっても、軽微な水害ですむような流域、つまり、柔軟で強靭な社会にしなければならないと力説した。

 この考えは、原発にもあてはまる。
 福島第1原発はM8.0の地震に耐えられるように設計されている、と巷間いわれている。こんどの地震は想定外のM9.0だったから、止むを得ない、といいたいのだろうが、それでは済まない。
 多くの人が避難所で不自由な生活を強いられている。
 現場の技術者は被爆の危険に曝されている。
 近くでとれた野菜や牛乳や魚は出荷停止になった。風評被害も広がっている。また、近くの水田は米の作付けが禁止された。
 放射能をもった廃液を海に放出したことで、全漁連は政府と東電に対して強い怒りの抗議をした。隣の韓国とロシアも厳しく抗議している。
 こうして、問題は、想定外の地震になったら、全くお手上げになってしまうことにある。
 信玄なら、想定外の洪水は遊水地に流す。数十年に1度くらい、流域が軽い水害になるだけだ、といったら、言い過ぎだろうか。そして、短期間で回復する。

 原発のばあい、どうするか。
 連続堤防の防災思想で考えると、M9.0の地震を想定して、原子炉や建物をもっと頑丈にするとか、巨大津波を避けるために、もっと高い防波堤を張り巡らすとか、万一のばあいの放射能を帯びた冷却用水のための巨大タンクを作る、ということになるだろう。
 だが、それでも、1960年のチリ地震のようなM9.5という巨大地震には耐えられない。こうした防災思想は破綻したとみるべきである。だから、根本的に変更せねばならない。
 2重3重の安全網を張りめぐらすことではない。先日の余震で、非常時用の発電機の多くが壊れていたことが分かった。あれだけの多くの発電機が故障していたのだから、その原因を担当者の人間的な油断に求めることは科学的でない。
 このことは、安全網で自然を押さえつける、という科学の破綻とみるべきである。科学の権威は地に堕ちたのである。
 いま、問われているのは、これまでの科学の限界についての認識である。変更すべきは、自然は征服できるという肉食系の単線的な自然観であり、災害に対する認識である。科学的認識論の変更といってもいい。
 信玄のように、自然を手なづけて、うまくつきあい、災害と共存する草食系の複線的な、あるいは、日本的、東洋的な新しい防災科学が求められている。
 そして、それは食の安全にかかわる科学的認識にも及ぶだろう。

 専門家から、いくつかの問題の指摘がある。
 高台に原発が位置していれば、地震の被害だけですんで、津波の被害は防げた。
 電気系統が広範囲に使えなくなったが、緊急用の非常電源にも重大な問題があり、原子炉の冷却が遅れている。
 冷却用の配管にも問題があるようだ。
 その他、いくつかの問題が指摘されている。

 筆者がいいたいことは、こうした問題を解決して、原発を推進せよ、ということではない。そうではなくて、原発についての防災思想を転換せよ、ということである。
 そのばあい、原発にとって「遊水地」に相当するもの、つまり、原発の災害を吸収できる技術が開発できるか、が最重要課題になる。それが出来るとしても、それまでは原子力を商業的に利用してはならない。それが出来ないのなら、原発を断念すべきである。
 いずれにしても、原発は縮小すべきである。いますぐに全ての原発を止めると、社会全体に深刻な影響をもたらすだろう。いま日本は発電量の24%もの大きな割合を原発が占めているからである。だから、残念だが、徐々に縮小するしかない。
 原発に代わるものは、農村で大量に眠っている太陽光や風力を使った、クリーンで再生可能な新エネルギーによる発電である。それに節電技術の開発を加えたい。


(前回 原発事故にみる非科学と無責任

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(2011.04.11)