「人の鉛筆を使ったら、たまには、削っておいてよ」と、夫が不満げに言ってくる。「ごめん、鉛筆削りって、あまり得意じゃなくて、ついつい…」と答えると、「得意、不得意があるかな、小学生の時、使っていただろうに」とぼやく。
夫の筆立てから、勝手に鉛筆を拝借し、先っちょを禿びらせたまま刺しておいたのが、一度や二度ではない。しかし、これには、深い訳がある。
物心が付いた時から、父親は居らず、私は、母と三つ上の兄と三人で暮らしていた。母子家庭という負い目がそうさせたのかどうかは分からないが、母は、人一倍、否、人の数倍も教育熱心であった。特に、長男である兄に対する教育熱は相当なものであった。
暮らし向きが楽ではないにもかかわらず、母は、兄をソウル一の名門小学校に入学させたくて、その学校がある地域に越してゆき、兄が小学校に入るや否や家庭教師をつける奮闘振りであった。
しかし、母の奮闘も空しく、兄は、人一倍、否、世にも稀な勉強嫌いであった。家庭教師が来る時間になると、どこかへ逃げ出したり、逃げ出しに失敗した時は、漫画を懐に入れ、トイレに閉じこもったりした。
このような騒ぎは、数年間続いたが、結局、母のほうが先に音をあげてしまい、私が小学校に入った頃には、母の過度な教育熱は沈静に向かっていた。母は、宿題だけはちゃんとしなさいと兄を宥め、兄もおとなしく母の言うことに従う様子であった。
しかし、その実、兄は母の予想をはるかに上回る勉強嫌いであった。兄と勉強机を並べていた私は、その真相をいち早く知った。
母に急かされて、暫くの間、机の前に座っているものの、兄は、本を開くことも、字を書くことも殆どせず、鉛筆ばかりを削りながら、強要された勉強時間を潰していた。滅多に使わない自分の鉛筆だけでは時間を埋めることができず、私の鉛筆も削ってくれていた。時には大事にしている新しい鉛筆まで削られてしまったりもした。兄と違って勉強好きであった私は、鉛筆ばかり削っている兄が理解できなかったものの、兄のために、もっともっと勉強をして鉛筆を磨り減らしていた。とうとう、小学校を卒業するまで、私には鉛筆を削るチャンスがめぐってこなかったのである。
あれほど勉強に興味がないにもかかわらず、母の言う通り机に向かい、六年間も休まずに、妹の鉛筆を削ってくれる兄であった。兄は、学業で母を喜ばせることはできなかった、いや、しなかったが、ほかの事で母を心労させることはなかった。
社会人となって初めて入った会社に今現在三十年も勤続中であり、大学生になった二人の息子と心優しい奥さんと平穏に暮らしている。そして、数年前には、脳梗塞で倒れた母を自宅に迎え、亡くなるまで安らかな末年を送らせてあげた。
思えば、鉛筆削りは勉強代わりの兄の日課だと思い、感謝の気持ちなど一度も持たなかったひどい妹であった。学校に行って、筆箱を開けた時、同じ形・長さで削られ整然と並べられている鉛筆たちを見て何回も感動していたにもかかわらず。「お兄ちゃん、ありがとう」。それにしても、兄の鉛筆削りに比べると、夫の削り方は、あまりにも粗末だ。