もう15年前となる。学部2年の夏休み、かねてから思っていた『源氏物語』の通読を試みた。しかし、現代文も辞書を頼ってやっと理解できる私に、古文を読み解く能力はなく、それは容易ではない挑戦であった。
夏休みを返上し、閑散とした大学の図書館に閉じこもり、辞書や解説書を片手に、現代語の対訳がある小学館の全集本を読み進めた。戸惑いながら、躓きながら、桐壺の巻から夢浮橋の巻までの54巻を何とか読み終えた時、校庭には秋風が吹いていた。
その後、『源氏物語』を研究の対象と選んでしまい、もはや純粋な読者としてはいられなくなったものの、平安王朝の雅な世界を何の私心(?)もなく散策していたその時に覚えた感動は、今でも格別さをもって胸の片隅に刻まれている。まるで初恋の思い出のように。
四季折々の情景が登場人物たちの思念を象徴的に担う名場面が数多くあるなか、この夏、ふっと想起してみた場面がある。
光源氏17歳の夏のある日の夕方であった。光源氏は、病気により尼となった乳母を見舞うため、六条にある通い所に向かう途上、五条にある乳母の実家に立ち寄る。しばらく門の前で待たされることになり、見慣れないむさ苦しい町並みを見渡していると、傍らの家から簾越しで自分の様子を窺う女たちがいる。粗末ながらもそれなりの風情があるその家に目をやると、板垣に這いかかっている蔓草の白い花が目に留まる。始めて見るその花が夕顔という名であることを知り、一房折ってくるようにと随身に命じる。随身はその家に入り、花を折る。その時、女童が出てきて、「これに載せて差し上げてなされ。枝も情趣が乏しい花なので」と言い、移り香の染みた扇を差し出す。
その扇の持ち主はのちに夕顔と呼ばれる女性であるが、その後の物語は追わないことにする。
一言の断りもなく、人の家に入ってきて花を折る無骨な男を無視することも見過ごすこともせず、夕顔という女性は扇を差し出しそれに応手する。その応手は、無断侵入に了承を与える粋な計らいであると同時に、卑しい家の垣根に咲く素朴な花に少しでも風情を添え、光源氏に届けようとする心遣いでもある。
『源氏物語』のなか、夕顔の花が登場するのは夕顔の巻の冒頭に置かれたこのやり取りのみであるが、それは、花を媒介とする貴族たちのどのやり取りにも劣らぬ魅力を放つ。
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さて、夕顔の実の果肉が、海苔巻きなどの具材として使われる干瓢の原料であることは、右の夕顔の巻を読むまで知らなかった。韓国にも夕顔はあり、その白い花はよく目にしていたが、果実を食べた覚えはない。
そういえば、スーパーの乾物コーナーで袋入りの干瓢を見たことを思い出し、さっそく、一袋を買って、煮物を作ってみた。何が間違ったのか味も今一つだったし、水に戻したら、相当な量となって、刻んでチャーハンに入れたり、スープに入れたりしてやっと食べ終えることができた。それ以降、10数年、干瓢料理は封印していた。
先日、仕事先で寿司弁当を頂いたが、干瓢入りの細巻きが一列入っていた。なかなかの美味であるそれを頬張りながら、鍋いっぱいのまずかった干瓢の煮物が思い出され、それを作るきっかけとなった前掲の夕顔の巻も連鎖的に思い出された。そして、『源氏物語』と格闘したかの夏までもが想起されてきた。食べ物は、体に活力を与えるのみならず、記憶の扉をも叩いてくれるのかしら…。