古い記憶の断片である。記憶の時計の針を逆に回してゆくと、ほとんどその終わり近くに刻まれている欠片である。にもかかわらず、何度も何度も取り出して眺めてきた記憶であって、時がもたらす色褪せ感や埃っぽさなどなく、かえって鮮明さを増している記憶でもある。
4歳の時、ソウルに越してきて1年足らずであった私たち家族は、ある小さい家の離れを借りて住んでいた。離れといっても、家主の住む母屋と軒を争う別棟であって、部屋1つと台所だけの狭い所であった。
その家主のところには、私と同じ年の女の子がいた。苗字は覚えてないが、名前はスニであったと思う。そのスニが、私の記憶する最初の友達である。
スニの父親は、暴力を振るう人であって、今思うとそれは酒乱であったようで、夕方になると、スニの家からは、怒鳴る声や物を投げつける音、そして、スニのか細い泣き声がよく聞こえてきた。そんな翌日は、スニの顔や体には決まってあざができていた。スニは、私より小さく痩せていて、その彼女があざだらけになっている様子は、あまりにも痛々しかった。
幼稚園もなかった時代であったし(金持ちの子などが通う私立の幼稚園はあったろうが)、近くに子どもが遊ぶような公園などもなかった。スニと私が親しく過ごした時期は、秋から冬にかけてであって、私たちは、昼間、家の外の塀の陽だまりに座って遊んでいた。遊んだといっても走り回ったりした覚えはなく、ただお日さまを浴びて座っていただけである。その時のお日さまの暖かさは今も忘れられない。
スニもそうであったろうが、私は、陽だまりが小さくなってゆくとしだいに心細さが募ってきて、日が暮れると怖さに襲われる日々であった。その時の陽だまりは、私たちに暖かさのみでなく、平穏をも与えてくれる、かけがえのない自然の贈り物であった。今も平和ということばを感覚で表現するなら、その時の陽だまりぼっこが真っ先に甦ってくる。
日が暮れると、私たちは各自の家へと帰って行った。スニの手を離しながらいつも彼女が無事であってほしいと思った。晩ご飯を食べる時も、スニのことが気になってしょうがなかったし、スニの父親の酒乱が聞こえてくるとご飯が喉を通らなかった。そして、父親のいない私がスニより何倍も幸せであると思ったりもした。
私たち家族は、半年ほどでスニの家を出たので、スニとはそれっきりとなった。私が彼女にしてあげたのは、生涯初めて届いたサンタクロースからのクリスマスプレゼントである大事なビスケットを食いしん坊である兄に奪われることなく、陽だまりに座って彼女と分け合って食べたことだけである。
連日のように、子どもを巻き込む、もしくは子どもによる事件や子どもの笑顔を奪う事態が世界の到る所で起こっている。それらを見聞きする度にあざだらけのスニが浮んできて、胸が苦しくなる。
素朴な言い方かもしれないが、大人が、子どもに不安を与えないことを第一に思って生きるなら、家庭も社会も平和を保つであろう。
お腹いっぱい食べられなくて、美味しいものが食べられなくて不幸になる子どもはそうはいないはず。子どもに温もりのある食卓を提供するのは、大人の最小限の義務であると言いたい。
スニは、今頃、どんなおばさんになっているだろう。たくましいおばさんになって、楽しい晩ご飯を食べていてほしい。