20年前、夏休みを利用して、はじめて東京に来た。ホテルは前もって予約したが、後は行き当たりばったりの気ままな一人旅を楽しむつもりであった。
しかし、街は銭湯の中のように湿気ていて、息をするのも苦しく、東京見物はあっさりと断念した。ただ、「日光を見ずして」はと思い、日光へは日帰りで出掛けてみたものの、1週間の殆どを、小さいホテルの部屋で、手持ちの数冊の本を読みながら過ごして帰った。
それなのに、その翌年の夏、再び東京に来て、今年、20回目の夏を迎える。
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韓国にいる時、日本人は韓国人より遥かに読書量が多く、電車などの車内では大半の人が本を読んでいる、と聞いていた。余所の国の事は、良き事にせよ悪しき事にせよ、誇張されて伝わる傾向が往々にある。事実、私が目にした車内の光景は、韓国での評判とは少し異なるものであった。
特に、朝のぎゅうぎゅう詰めの電車内で、分厚い漫画本や目を逸らしたくなる写真などが載っているタブロイド誌を読むサラリーマンが多いことに、違和感を覚えた。
それも読書と言えば、読書かもしれないが、戦場ともいう職場に向かう時間帯の読み物としては相応しくない気がした。
ともあれ、電車内で隣の人が何かを読んでいる時、それに自ずと目が向くのは、私だけだろうか。
数ヶ月前のことだが、電車に乗っていると、穴をあちこちに開けたジーパンを着て、髪を染めた今風の若い男の人が乗ってきて私の前に立った。そして、ジーパンの後ろのポケットから文庫本を取り出し読み始めた。今時の若者は何を読むのか気になって、表紙が目に入るチャンスを窺っていたら、司馬遼太郎の『坂の上の雲・六』であった。破れたジーパンのポケットから文庫本が出たのも意外だったが、それが長編の歴史小説であるのがなおさら意外であった。「先入観は駄目だよ、オバサン」と自分に言い聞かせ、「偉いぞ!若者」と心で拍手を送った。
また、数日前のこと。カルチャーセンターで韓国語を教えての帰途、都電に乗り空いた席に座ると、隣の60代と見られる男性が、韓国語の学習書を開いていた。興味が湧かないわけがなく、ちらちら横目で見ると、「デートの申し込み」という場面設定の会話文であった。「一緒に食事でもしませんか」・「どんな花が好きですか」などの韓国語が書かれてあって、初老の学習者は、夢中になって、口の中でブツブツと練習をしていた。その内情など分かりっこないが、「頑張れ! オジサン」と無言のエールを届けた。
そういえば、何時かは、与謝野晶子訳の『源氏物語』を読んでいる女性を見かけて、独り親しみを覚えたこともあった。
公衆の場での読書だから、これくらいの間接的な楽しみは許されるのでは? もしかしたら、私が読んでいる本を窺い、類似した楽しみに耽る人がいるかもしれないし…。
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一週間ほどの夏休みを控えている。20年前のように旅行に出たつもりで、思い切って家事などそっちのけで、出前でも頼んだりしながら、買い溜めの本を引っ張り出し、読書三昧境に入ってみたいものの、実現の可能性は未知数だ。