町の繁華街や商店街などにクリスマスツリーやイルミネーションが飾られ、デパートやお店からはクリスマスソングが繰り返し流れ、道行く人の気持ちや財布を刺激するシーズン。
東京でも見かけられるものの、ソウルの街角には、このシーズンになると、救世軍の赤い慈善ナベが多く登場し、義援金を募る鐘の音がクリスマスソングに混じり、北風で赤くなっている通行人の耳元に届けられる。
デパートなどの売上額が一年のうち最高に達するこの時期、慈善ナベのみならず、色々な助け合いの義援金も一番集まるという。
それは決して、冬のボーナスで懐が潤っているからではなく、財布の紐が緩んだついでの気前なんかでもない(こんなご時世なんだから!)。
恐らくそれは、日頃は、生活に追われ心の奥底に眠りこけていた人誰しも備わっている優しさが、少し幻想的であってかつ非日常的な雰囲気によって目覚めてくるからではないだろうか。
巧みな商売術に踊らされたくはないが、助け合う・分け合うことがもたらす豊かさや温もりは、是非味わってみたいものだ(こんなご時世だからこそ!)
* *
クリスマスほどではないが、最近は、イースター(復活祭)も少し知られてきている。そのイースターの体験一つを。
3年前の春の或る日、最近は刑務所にも外国人受刑者が増えてきて、言葉や食事など色々な面で難しい問題が生じているというニュースに接した。10年以上、在日外国人のための相談NPOでボランティアの相談員をしているし、私自身も外国人の一人であり、そのニュースは、何日も頭から離れず心を重くしていた。
ちょうどイースターを控えている頃だったので、日本語をはじめ、韓国語、中国語、英語、その他何カ国語の聖書を購入し、インターネットで府中刑務所の住所を調べ、手紙を添えて送った。
手紙の詳細は記憶してないが、何かの団体に属する者ではなく、日本で普通の暮らしをしている一主婦であると、怪しまれないように、やたらと身の潔白(?)を強調する自己紹介の後、こんなことをするようになったきっかけを述べ、母国語に飢えているだろう人たちに、その母国語の書物として老若男女に関係なく読めるものとして聖書を選んでみたと伝え(内心自分を顧みるきっかけになればという気持ちがあったが、そんなことが口にできるほど身の程知らずではない)、そちらの状況などは分かってないが、何処かに置いておいて読めるように取り計らってほしいという願いを恐る恐る書き綴った。
その二日後、速やかに、小包は返されてきた。簡略な断りの文面とともに。
今の世の中は、万事にマニュアル(取扱い説明書)が添えられていて、マニュアルから逸脱することは受け入れられない人間の機械化の時代である。それを知っていながら、年甲斐もなく素人じみたことをして、人〈組織〉を困らせることを何度も繰り返す私である。
* *
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
よく知られている石川啄木の『一握の砂』のなかの一首である。啄木の生きた明治時代とは違い、今はふるさとを離れた人たちの多くが異国の地へと移り住む時代である。その人たちが、道を踏み外さず、ふるさとが育んでくれた自分らしさを失わず、母国語への乾きも解消しながら、それぞれの地においてたくましく生き抜くことを、この年の瀬に際し、切に願う。
〈終〉