矢沢敦子さんはわたくしとは一周り半年下の20年来の友人である。共に評論家の樋口恵子さんが理事長を務めるNPO「高齢社会をよくする女性の会」の会員で、10周年記念の「スウェーデン・アメリカ視察旅行」に参加したのが友情の始まりだった。矢沢さんは長野県伊那郡高森町上市田の兼業農家の主婦だった。
当時は夫のご両親の介護に明け暮れ、出口の見えない真っ暗なトンネルを手探りをしながら歩くような欝症状にずっぽりとはまり込んでいた。多分相性だったのだろう、会員同士ではあったが、それまで1度も出会ったことがなかった2人だったのに、成田空港に着いたときには離れがたい思いを抱き合うようになっていた。
敦子さんはどちらかというと寡黙な方なので、ぽつりぽつりと語る言葉をつなぎ合わせていくうちに、兼業農家の主婦として介護と農業に打ち込んでいる日々の暮らしぶりが、如実に浮かび上がってきた。
わたくしは職業欄には「著述業」と必ず書くことにしている。紹介記事には「ノンフィクション作家・評論家」と表記されているが、電話1本から始まるこの種の仕事は何故かわたくしには虚業のように思えてならないのである。わたくしには42歳になるあずさという一人娘がいるが、多分3日も4日も電話が鳴らないとイライラし始める虚業性を母親の暮らしぶりから見て取ったのだろう、命により近くなるほど実業との思いから、母親の反対を押し切って大学を中退、看護師になって今年で20年目になる。
娘の看護士歴と敦子さんとの交友歴とはほぼ同年月だが、「命に近い仕事ほど実業」と真剣な眼差しで言ったあずさの言葉を、ニューヨークの夜景を見ながら敦子さんにぽつりと語った。
「羨ましい。農業はまさに命を耕す実業中の実業。敦子さんはわたくしのことを先生と呼びかけるけど、でもわたくしの仕事は、命にはまことにほど遠い一種の虚業よ。あずさといつも語り合うの。命を耕す仕事、農業が一番、喜びと誇りの持てる仕事じゃないかって。だから敦子さんの背筋はぴんと伸びてるのよ。嬉しいわ、お近づきになれて」と。
以来、年に3、4回、敦子さんの丹精の農作物が送られてくるようになった。この4、5年の間に夫のご両親が相次いで亡くなられた。今では本格的に命を耕す仕事に取り組んでいる。有機農業を研究し、まさに命を育み育てる野菜やお米づくりに心血を注いでいる。古代米も年々うま味を増している。
「あのとき吉武さんに会わなかったら農業を辞めていたと思う。農業が命を耕す仕事だと言われた言葉に励まされて、吉武さんに農作物を送りたくて、そして嬉しさに弾んだお礼の電話にまた励まされて、気がついたら命を耕す仕事が最高の仕事と鳩胸型の人生を生きるようになっていました」
どっさりと送られてきた夏野菜のお礼の電話をかけたら、敦子さんが晴れ晴れとした声で言った。嬉しくて思わずぴょこぴょこと受話器を耳に当てながらとんでしまった。