わたくしが参議院の残酷区といわれた最後の全国区に、女性解放や護憲・反戦や環境問題に取り組んでいる女性や若者たちに押されて無所属の立場で立候補したのは、1977年、45歳の時だった。その2年前が、国連提唱の国際婦人年。第三世界の大国メキシコシティで国際婦人会議が開催された。
敗戦を期に法律やシステムが変わっても、人間の意識が瞬時に変わるものではない。女を法的に無能力者と規定していた戦前に生まれ育った日本の男性は、相も変わらず女を半人前と見なし、職場でも家庭でも堂々と性差別がまかり通っていた。女たちは全力をあげて憲法が保障する男女平等を現実のものにしたいと、さまざまの運動を繰り広げていたが、立ちはだかる差別の壁は高く厚かった。女たちが国の枠組みを乗り越え、女性問題を語るために一堂に会するという壮挙は、まさに人類の歴史始まって以来のことだった。
他国ではどのように女たちが手を携えて男女平等を現実のものにしているのだろうか。なんとしても情報を得たい。期待と希望に胸を膨らませてわたくしも、国際婦人会議に参加した。「千年かかって作り上げられた性差別をなくすためには、やはり千年はかかるのではないか。女たちの実力で少なくとも一世紀は、世界女性会議を開催していこう。そのためにはなんとしても女たちを引き裂く戦争を阻止しなければ。平和、平等、女の政治参加を合言葉にしよう」というアピールに、参加した女たちは感動で胸を震わせたものだった。
2年後の参議院選では、女の選挙をと熱い思いが盛り上がった。思いがけなくも白羽の矢がわたくしのハートに向かって放たれた。女に参政権が与えられた、第1回の選挙のときに83人の女たちが立候補してくれた。新聞に載った女性候補者の顔写真を見ながら、「勇気を持ってチャンスを掴んでくれる先輩がいてくれるから、後輩たちが生きやすくなる。だからわたくしも誰かがではなく、わたくしがという生き方をつらぬかなくては」と感動して決意した日のことがまざまざと思い出され、勝ち目がないことが分かりながら、潔く立候補を引きうけた。
選挙母体は「吉武輝子と連動する会」、選挙のスローガンは「後始末の思想のある政治を」。スローガンの発案者は、生産者と消費者の掛け橋役を務めていた消費者連盟の女性だった。「長い間、男の人たちは会社でも地域でも家庭でも、女に後始末を押しつけて、すべてやりっ放しの生活を送ってきた。男に欠落しているのは後始末の思想。もし男に後始末の思想があれば、永久に後始末のできない戦争や環境破壊や命にツケを回す科学優先のものづくりに狂奔することなんかできない。次世代の命を守っていくために必要なのは後始末の思想のある政治よ」とのことばに全員が頷き、「後始末の思想のある政治を」が吉武選挙のスローガンとなったのである。
残念ながら結果は落選だったが、来年は選挙の年。戦争のできる国に大きく変わろうとしている今、女たちの掲げるスローガンは「後始末の思想のある政治を」。女は誰もが後始末の思想をもっている。家事や育児や介護を男と分けもつことは、男に欠落していた後始末の思想を育んでいくことなのだと、しかと女たちも認識しなくては。