コラム

吉武輝子のメッセージ JAの女性たちへ

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【吉武輝子】
文化の継承者

 浅草の門前町にある富岡神宮の結婚式場で、色絵陶器古九谷の再生にまさに生涯を捧げ...

 浅草の門前町にある富岡神宮の結婚式場で、色絵陶器古九谷の再生にまさに生涯を捧げてきた海部公子さんの個展が開かれた。公子さんとの付き合いは30年近くに及ぶが8歳年下の彼女は飛びっきりの美女だった。
 彼女を引き合わせてくれたのは、石川テレビのディレクターの赤井朱美さんだった。わたくしもかって男社会の象徴のような映画会社で日本初の女性宣伝プロデューサーに抜擢されて以来、「女ごときにあごで使われてなるものか」とのいじめまがいの抗いに、女の実力を甘く見るなよ、と踏んばり踏ん張り、何時の間にか揺るがぬ地位を築き上げることが出来た。
 古都金沢にはやはり根強い男尊女卑の思想が引き継がれてきているのだろう。一回り年下の赤井さんがディレクターに抜擢された当初は、「女ごときに何が出来るか」と何かにつけて無視され、足を引っ張られてきた。そんな頃、性別に関係なく実力を発揮して働き生きたいと願う女たちが、赤井さんの家に集まったとき、講師として招かれて以来、互いに遠くからエールを送りあってきた。
 実力と底力に恵まれていた朱美さんはいつしか賞を総なめにするディレクターに成長していた。その赤井さんが何回目かの出会いのときに「どうしても紹介したい人がいる」と言って連れて行ってくれたのが、加賀市の吸坂で吸坂窯を守り育て、色絵古九谷の再生に志をたくして生きている海部公子さんの古民家を移築して建てた家だった。
 吸坂窯を作り出したのは、洋画家の硲伊之助だった。戦争中配給された絵の具で、或いはこれが最後の絵になるかもの思いを込めて描いた風景画が、絵の具にいろんな異物が混じりこんでいたのだろう、あっという間に色が変色してしまい、似ても似つかぬ駄作になってしまったのである。なんとかして色の変色しない絵を今生の思いの中に残すことが出来ないか。考えに考え、各地を歩き回って出会ったのが、古九谷の発祥地吸坂の色絵古九谷だった。色絵古九谷はまさに絵画の粋だった。入れ物というより、入れ物の形を取り入れた陶画だった。陶器に色絵を描いて焼き付けてしまえば、色は永遠に変色することなく、描いたものの思いを永遠に伝えていける。硲伊之助さんは渾身の思いを込めて吸坂窯を起し、平和への祈りを色絵に託しつづけた。その硲伊之助さんの弟子入りを願ったのが、18歳の公子さんだった。貧しい家庭に育った公子さんは、身を粉にして働きながら、師の才能技術をひたすら身につけていった。師の死後は、地域の女たちに助けられながら、生活苦に打ちひしがれることなく、納得した作品を作り上げることが出来たのは、地域の女たちが、農作物をどっさりと届けてくれたからである。
 個展の中での圧巻は、サツマイモの陶画。筍の大皿。黄色の稲の穂の波打つ大皿。アケビの陶画の大小。女たちが耕し育てた農産物が画題となっていた。わたくしは小の陶画を求めたが、会場も女たちの姿があふれていた。
 欲のために劣化した男性と違って、同性の才能の開花に惜しみなくエールを送ることの出来る女たちがいまや文化の真の担い手となっていることを個展の会場は物語っていた。赤井朱美さんはいま文化の継承者としての女の熱き連帯をテーマに素晴らしいドキュメントを製作している。女が女にエールを送ることの大切さを後輩から教えられたとの感が深い。女にうまれてよかったな。

(2007.11.01)