自他ともに認めるお取り寄せ魔である。地方講演でいただいた、ことに野菜類の新鮮でジューシーで命の源そのものといった感動に触れると、矢も楯もたまらずさっそくお取り寄せという仕儀と相成ってしまうからである。大野の里芋を南高梅で炊き込んだ芋飯のうまさといったら。吉兆のお料理なんか目じゃないとつい鼻息が荒くなってしまう。
食べ物ではないが年の終わりのわくわくどきどきのお取り寄せは、越前水仙である。7年前に、パンフレットが送られてきて以来、毎年、とびっきり好きな友人に30本入りのものを送らせていただいている。欲張りだから、自分用には50本入りを2箱。水仙には備前のツボがぴったりあう。5箇の備前のツボに100本の越前水仙を活けて、家中に飾るとへなへなしてた背筋がぴんと伸びて、何となく心の強いかっこいい女になったような気分になるから不思議である。
63歳から俳句を始めて今、76歳だからかれこれ俳句歴は13年になる。人間の能力は年を重ねると衰えていくというのは常識の嘘で、逆に使えば使うほど、能力、才能は開花していくのだなと人間に生まれたことの喜ばしさが沸きたって来るほど、いつの間にか中堅どころの俳人として、そこそこの評価をいただけるようになっていた。
一度、越前水仙の最盛期にその地に吟行に出かけた。まるで海になだれ込んでいくように斜面いっぱい海光を浴びた水仙が凛然と、そして楚々と咲き誇っていた。3年前は季節はずれの雪に全滅し、今年は9月に雨が降らなかったために、半分しか開花しなくて12月12日で申込は〆切。かろうじて滑り込んで昨日100本の越前水仙が送られてきた。部屋中にすっくと首筋を伸ばして咲いている水仙を見つめていると、改めて遅咲きの花の強さが染みいってきて、いつの間にか、大好きな後輩、歌手のクミコの姿がたちのぼってくる。
クミコさんは、昭和29年生まれだから今年53歳になる。出身地は茨城県の水戸。
早稲田大学に進んで演劇部で活躍していた。たまたま劇中歌の役どころを振り当てられたところ、「君は役者よりも歌手になるべき星の下に生まれている」と演劇仲間にけしかけられ、本人も大納得で、歌手の道を志すようになった。在学中に歌手として賞も受賞している。本人が、プロと自覚するようになったのは27歳。銀巴里のオーディションに受かって出演するようになってからのことである。当時は銀巴里には三輪明宏さんが一世を風靡していた。
27歳でプロデビューしたが、50代になるまで鳴かず飛ばずの日々であった。何回も苦い涙を流した。他の道で花咲くのではないかとじたばたした時代も長かった。水商売に身を投じたり、シナリオライターを志したり。じたばたしながら消去法で進む道を決めていった。「自分は水商売は向いていない」「シナりオライターは別個の才能が必要だ」――。消去法でことを決めていくと必ず残るのは、歌手の道だった。過酷な人生を生きたフランスのシャンソン歌手エディット・ピアフが死んだ年を越えたとき、心が定まった。苦い涙・嬉しい涙・悲しい涙・悔しい涙、さまざまな性格の涙を流して生きてきたのはピアフと変わりない。
「半端なシャンソン歌手などと自嘲的な自己紹介は辞めて、生きてきた人生の思いを心を込めて歌おう」と腰を据えた50代。以来、和製ピアフと称されクミコは、一気に花形歌手としての、階段をかけのぼった。この原稿を書いている前夜、クミコのディナーショーに行ってきた。こびず、卑屈にならず消去法でひたすら歌い続けてきた遅咲きの花の強さと含羞と華やかさとある種の孤愁に充ち満ちたディナーショーの間中、聞くものひとりひとりに生きるとは何かを問うてくるような存在感がクミコにはあった。若い時にちやほやされることのなかったものの、遅咲きの花の強さはまさに人生80年時代の最高の宝物だと、越前水仙とクミコを重ねながら、私は独り頷いていた。