三人娘の長女の俵萌子さんが急逝してから、なんともう半年を過ぎてしまった。
2年前のNHKの新春番組「三人娘七十代大いに語る」に出たときは長女の俵萌子さんは堂々たる着物姿で、進行性の呼吸障害で苦しんでいた私よりも確実に30年は生きると言えるエネルギーに充ち満ちていた。三人娘は長女が俵萌子さん、次女がわたくめ吉武輝子、三女は理論派の樋口恵子さん。
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そのときの鼎談でね、俵さんが何回も、「戦争を語り継ぐのは大人の責任」っていっていましたよ。5年ぐらい前から赤城の麓にある「萌子美術館」裏の雑木林で8月15日は「戦争を語り継ぐ会」が開かれていたんです。
私は毎年参加していたんですけどね。昨年の8月15日は、萌子さんが入院中だったから、主催者の代役で参加したんです。嬉しかったのは年々、若い人が増えてきていること。
実はね、10年近く中央大学政治学科で前期13回、女性学を教えていたことがあったの。みんな個性は豊かなのに、誰も彼もが毛穴からあてどもない寂しさをにじませている。なぜなのかしらと誰彼とお茶飲んで話し合っているうちに次第に分かってきたのです。
ほら人間て全員が一斉にワンツースリーと生まれるわけじゃない。私が生まれたときは延々と過去の歴史の闇が広がっている。きちんと歴史を学ぶと生まれる前の闇からさまざまな現実が浮かび上がってきて、自分の今たっている現在地点が認識できる。
現在地点が認識できると真っ当な未来志向が沸き出てくる。今は国は現代史を学ぶことを禁止している。現代史をじっくり学ぶと政治の誤りに気づき、二度と同じ轍を踏むまいとの未来志向をはぐくんでいくのが怖いから。
現地点が分からないなら未来志向をはぐくむことが出来ない。それが寄る辺のない孤独を毛穴からにじませてるんだなと分かったときから、わたくし歴史の語り部になることに徹し抜いたの。
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十四歳のときに敗戦を迎え、無能力者であった女が男と同じ人間として扱われることになったことの喜び。大学の門戸開放、婦人参政権の獲得、好きな人と結婚できる喜び。ほんとうに天井が抜けて青空になった感じ。でもわたくしの戦後は、進駐軍の集団性暴力からスタートしたの。何回か自殺に失敗してね。同じ生きるのなら納得した誇り高い人生を生きたいと考えるようになってね、以来砕けた鏡の一片一片を拾うように、憲法で許されている男女平等を実現することに全力をあげてきて、今日のわたくしがいるのよ。
学生たちにわたくしと、同じ轍踏まないように、ひたすら自分史についてかたりつづけたの。有事立法反対の座り込みの時なんかメール打つと続々座り込みに来てくれたもんだったわ。
「大人が信用できるようになったって」泣いた学生もいたのよ。年を重ねた人間の大きな仕事は、平和の語り部になることだってどれだけ教えられたことか。
だから萌子さんの会にも出席してたんです。その萌子さんが、わたくしと同じ膠原病の間質性肺炎で亡くなっちゃうなんて。わたくしは慢性の間質性肺炎だけど、萌子さんは突発性で窒息死みたいだったから、ほんとうに苦しかったと思う。
赤城の萌子美術館は閉館することになったの。電話がかかってきてね。「閉館日の7月27日に、もし吉武さんが中心になってやろうって言ってくださったら、8月15日の“戦争を語り継ぐ会”をこの日にもってきて閉館したいの」ですって。もちろん「やりますぞ」と答えているわたくしがありました。国が正しい現代史を教えなかったら大人ひとりひとりが歴史の語り部にならねばならぬぞって、萌子姉上は言い切り、実行し続けてきたんですもの。無念の思いを残して死んでいった萌子さんの意志はバトンタッチせねば。語り部になるためには背筋伸ばしてきりきりっと生きること。かっこよい高齢者になりますぞ。