また開戦記念日を迎えましたね。日本の国を戦争の出来る国に替えようとする勢力が、政権交代後もなんだかもやもやしているので、「次世代に無傷で平和憲法を手渡したい」とただその思いで、反戦・護憲の運動をひたすら続けてきたわたくしは、本当に怒りと悲しさで胸がいっぱいなのですよ。
わたくしが敗戦を迎えたのは14歳の時。人間形成のまっただ中であったことは幸せだった。変化の中身が理解でき、平和と平等を求めてひたすらに生きる歳月がたっぷりとあったのですもの。
本当のことを言うとね、飢餓の時代だったのに、当時のわたくしは精神的拒食症にかかっていたんです。昔はね、結婚を決めるのは、小天皇の家父長だったんですよ。母は言われるままに結婚、男の子が生まれて8ヶ月目に夫が急死。子を連れて実家に返されたんです。そしてまだ喪が明けないうちに、我が子と同じ年の女の子のいる家に再婚させられたのです。隣近所の人たちは事情を知っている。女は無能力と法規定しておきながら、母性愛の神聖論で持ち上げる。あり得ないことを真実らしくするために、継母が犠牲山羊に仕立て上げられていたんです。実母は命を賭けて、子どもを守るが、継母はママコいじめをするもんだってね。病弱な姉は気難しくて、何かというと泣きわめく。するとね、裏庭の塀の節穴から何かきょろり、きょろり。玄関から出てみたら、何と近所の主婦たちが、人の不幸は我が身の幸せと我が家をのぞき込んでいたんですよね。だからわたくし大人の女になるのが嫌だったんです。
ありがたいことに敗戦を迎えたら女も男と同じ人間と言うことになった。
戦前と戦後では教育内容が変わった。ことに歴史と修身の変わり様は激しかった。今ならすぐに新しい教科書が配付されるけど、当時はね、物不足時代でしたからね。間違っている箇所を墨で消すことから、わたくしたちの民主教育が始まったんですよ。歴史と修身は誠にきまじめな岡本先生という50代近い女性でした。
その岡本先生の戦後の授業の最初が「ごめんなさい。何ページの何行を消してください」から始まったんです。歴史なんか2ページ近く真っ黒になりましたっけ。ある時「ごめんなさい」と言った後岡本先生の言葉が途絶えてしまった。と滂沱と涙を流しながら言ったんです。
「ねえみなさん、批判なきまじめさは悪をなすんですよ。
おかげで若い人たちの死に手を貸してしまって」って。それから一月後、「わたくしは教える資格がない。ふるさとの岐阜に帰って一生懸命に我が家の農業の手助けをします」と言われたではないですか。帰国の日、何人かの友人と岡本先生の見送りに出かけました。東京は焼け跡のまま。窓から人が出入りする騒ぎだったんです。「岡本先生、岡本先生」と大声で呼びながら列車沿いに走ったら、ごとんと動き始めた列車の一番前の窓から岡本先生の顔がのぞき、「吉武さんたち。批判のないまじめさは悪をなすってことをわすれないで」声をふりしぼって言ったではありませんか。その言葉は今も焼き付いて離れません。だからメディアがあおり立てるように報道したことは、一歩立ち止まって考えることにしているんです。ことに選挙の時は。