昭和56年から全国でも先進的に減農薬栽培の先頭に立ったのは「百姓の健康のために農薬を減らす」と研究を行っていた宇根豊さん。女性農家グループ「ときわ会」をはじめとした農家の人へ研究の成果を指導しはじめた。
減農薬に大きく貢献したのは「虫見板」という稲についた虫を観察する簡易道具だった。水際に虫見板を当てて稲株を数回たたき、落ちてきた虫から農薬散布の必要性を判断する方法だ。「田んぼの虫を見て適当な量の農薬を使わなくてはだめ」と同JAの稲作農家3000人に虫見板が配られた。減農薬栽培が広まる大きな要因は昭和60年に秋ウンカが大発生したときだ。農薬散布回数が県平均13回に対し同JAは4回だったが、虫見板による判断で被害率は県下の30%に対して0.3%だった。
宇根さんは自慢の減農薬米の産直にも力をいれ、昭和60年から正式に地元生協と取引が実現。「赤とんぼ米」と名付けられたブランド米が誕生した。
今でいう地産地消の先駆けを果たした。