昭和33年春、帯広畜産大学の田島重雄教授のもとに、士幌町農協の太田寛一組合長が代理を命じた吉山課長が足繁く通ってきていた。
太田寛一の狙いは太田助に農協職員になってもらうことだった。当の助は卒業後、副手として田島研究室に残りながら、渡米して労務者として働けば1年ぐらいの学資は稼げミネソタ大で勉強できるという話がまもなく実現すると考えていた時期。しかし、度重なる組合長の来訪に田島教授は「渡米したつもり、でどうか。その代わり3年したら大学に戻れ」と説得。太田は農協職員になることを決断した。
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