上山さんは昭和3年生まれ。成人式を迎えた年に農協ができた。昭和の初めから戦後の一時期まで農村で育ったが、「子ども心にもなぜ農村は貧しいのかと思っていた。まさに“貧しさからの解放”が課題だった」と振り返る。
そこで村を豊かにするために、「たくさん収穫できる品種をつくってやろう」という夢を持った。「当時の稲は1つの穂に100から120粒程度実れば普通だったが、中学に入ったころ、鳥取高等農林(現鳥取大学)の先生から、潜在的には1000粒ぐらい実る能力があると聞かされ、そんな米づくりができれば豊かになると思った」という。
(続きは、【シリーズ・農協を創った人たちを訪ねて】[3]上山信一氏・農林中央金庫元副理事長 「貧しさ」からの解放、農協づくりが出発点 で)