農業の多面的機能再確認
昭和37年4月、端野町農業協同組合理事に就任、以後平成7年4月端野町農協組合長を退職するまで30数年間農協事業に関係した。この30数年間の歳月において、日本の社会・経済の環境変化は極めて大きく、これに伴って地域農業も変貌様変わりをいたしました。
地域農業の一般的変貌傾向に併せ、私の営農経験を概略、次のように記述しておきます。
◆北見地域農業変貌の大要
◎変貌1 日本農業に対する農畜産物需要の量的停滞と地域農業への影響。
戦後20数年、飽食という言葉で表されているように、コメの消費減退に歯止めがかからない。かつては一人当り消費量120kg以上だったが、それが60kgを切るほどの事態であり水田耕作面積の著しい減退、代って野菜・タマネギへの傾斜、畜産への拡大とすすんだ。
◎変貌2 日本経済の高度成長に伴う変化。
日本経済の高度成長に伴い「農家労働力の農業雇用機会」が通勤可能圏内にますます拡大していること、つまり、基本的には「農工間の所得形成力の格差が拡大」し、相対的に見て農業従事者の所得形成力が一層低下する現実が進行。全国的に多数の兼業農家が輩出し、他面において「零細農の転出により規模拡大経営農も出現」したが、農業後継者の確保が容易ではなく経営者の高齢化が進んでいる。
◎変貌3 東西冷戦の終結を契機にして、農政基調に大きな変化が。
戦後40年、その間日本の経済政策は順調に経過し、結果として「世界最大の貿易黒字国・債権国」となり、これとは逆にアメリカは「世界最大の貿易赤字国・債務国」におち込んでいた。そして日本に対し、日米貿易不均衡是正のため円高戦略を発動。円高の進行とともに輸入農産物の価格は低下し、その輸入量は急増した。中でも牛肉・生鮮野菜・加工食品の輸入増加が著しい。さらに、アメリカ主導によるWTO・ガットウルグアイラウンド農業交渉によって、農業国際化の浸透、農産物市場開放、食管制度廃止され、北海道農業の受けた影響は大きい。
(写真)
端野町の野菜施設
◆自由化潮流のリスクの検証
菅直人元首相がTPP交渉参加検討に言及。その後、地域農業の現場からわれわれ同志とともに各所に発信続けた言動を記述します。
(1)飽食に慣れ切っているためか、自国の食料自給率の低すぎることに気付いていない。特に穀物自給率の低さに気付いていない。危機感をもっていない。
(2)気候変動。2012年はアメリカ、オーストラリア、ロシア、東欧、インドなど記録的大旱魃となり、「トウモロコシ・大豆・小麦といった主要穀物の不作」で空前の価格高騰となり、主要国はそれぞれ輸出禁止、輸出税を課した。日本ではゲリラ豪雨に見舞われ、地域農業も異常気象の多発により被害が多発している。いま、国際化の潮流、TPPのその中で人口変動・気候変動・地殻変動など顕著な「グローバルリスク」に対して自国の食料自給率の低すぎることに緊張して気付かねばならない。
(3)農業のもつ多面的機能の再確認。北海道中央会の堅持すべきは農業の多面的機能の強化であり北海道農業を取り戻す、道内地域農業の強靭化である。全中の「多様な農業の共存」は北海道農業の強靭化と共存し、国民のため、消費者のための農政の展開をすすめるべきと考えている。
◆地域農業強靭化思索し体制築く
日本での人口減少社会(少子・高齢化の進行)で「食料の安全安心を眼目にし、自給率向上」を念頭にしなければならない。私の在住するオホーツク北見地域農業は畑作酪農であり、殊に今回畑作の強靭化の方向にかかわる思索について、いささかその抱負を述べておきたい。
国内農業を[1]野菜・果樹、[2]稲作、[3]畑作、[4]酪農・畜産、以上4つの地域農業に大別し、それぞれ強靭対策を検討しなければならないが[1]の野菜・果樹作がどんなに強くとも、人間の生命維持に欠かせない基本食材を生産する[2]、[3]、[4]をないがしろにすることはできない。以下、畑作について、要点を話したい。
要点1:世界に誇る4年輪作体系の継続的確立(この継続確立こそ、食の安全・安心、高品質持続の条件なのである)。[1]体系持続を支える条件―農協の価格条件の運動展開、[2]持続を支えた縁の下の力もち―土地改良事業の継続、[3]輪作を支える基本、農耕地の土づくり(畑酪経営間の具体的連携)。
要点2:畑作4年輪作に続け、さらにオホーツク北見野菜への挑戦。全国一の産地を築いた北見たまねぎに続いて人参も加工芋も北見野菜として挑戦する。そして、このことは地域農業が一次・二次・三次への統合発展へとすすむ。
要点3:オホーツク北見の地域農業や隣接十勝圈の食料自給率は、それぞれ現在、900%、1000%であり、ここでの生産物を国内主要消費地に搬送するためには、高速道路網、搬出港湾の整備が伴っていなければならない。
【推薦の言葉】
北海道農業の発展に貢献
三好氏が組合長となった昭和46年当時は、コメの減反政策が開始され、北限の稲作地帯を含む端野町にとってはまことに厳しい時代だったが、氏は道営、国営の土地改良、農地開発事業を積極的に呼び込んで農地基盤を整備し、寒地作物としてのビートを振興し、馬鈴薯、小麦と共に畑作の輪作体系を確立。水田地帯についてはモチ米団地に転換すると共に、転作作物としてたまねぎの拡大振興を図り、そのために低温冷蔵庫、大型コンテナ、新品種の導入を進め、日本一のたまねぎ産地となった北見地方の中核としての地位を築いた。
また、ホクレンでは、産地づくり、技術開発、営農コスト低減運動等の新たな展開を進めるとともに、系統再編の実施では北海道農業の推進役としてのホクレンの機能をより発揮するために「道内二段階」という独自の組織改革を積極的に推進した。このことはその後の北海道米の躍進や野菜産地の拡大、そして安全・安心の産地づくりに結びついた決断として高く評価されている。
【略歴】
みよし・こうきち
大正13年北海道常呂郡端野村に生まれ。
昭和13年端野村尋常高等小学校卒業。昭和37年4月端野町農協理事、同46年4月同農協組合長理事。同47年7月北見広域農協連合会理事、同56年7月同農協連副組合長理事、同59年6月ホクレン専務理事、平成2年6月同副会長理事