◆破滅の淵に立つ私たち
私たちの同世代は戦争末期、都会の空襲や食料難から逃れるために都市部の児童の多くが農村へ避難した。これを「学童疎開」といい、集団での避難が「集団疎開」だ。親たちはさておき、次の世代を担う子ども達だけは生かしたいというまっとうな親心、人間の心、社会の精神があった。ところがいまは状況が違うのだ。
東京からはるばる避難してきた母のふるさとのわが家は、実は九州電力玄海原発の10キロ圏すれすれの位置にある。加えて村にひとつしかない川の源流には産業廃棄物最終処分場が稼働中という場所になっているのだ。
つまり「東京が危ない!」と避難してきた田舎はもっと原発の近くだったというブラックジョークである。原発から300キロ以上離れているのは北海道の網走地方と沖縄だけだという。このまま進むならいずれこの国には避難する場所はなくなるだろう。
周知の通り高速鉄道と原発の輸出は日本の新成長戦略の要に位置づけられている。もし仮に日本企業による原発が中国沿岸部にずらりと並び、交互に想定外のトラブルを起こしたとしたら、上空を覆う放射能によって日本は人の住めない国になる。日本発の破局のブーメランである。とりわけ黄砂現象がひどかったこの春、上空を見上げながら私は本気でそう考えた。食の安全安心や地域振興どころの話ではない。私たちは破滅の淵に立っている。今回の原発事故が教えたのはその事実ではないのだろうか。
◆経済が成長するほど人は不幸になった
そして、そのことは私たちが生きてきたこの半世紀、経済成長の犠牲にされてきたものが自然環境や命というもっとも大切なものだったことを示している。経済は損得の問題だが環境や食料は生死の問題である。これを混同し、むしろ経済を上位に置いてきた。第一次産業の苦境と衰退はその帰結である。
私の住む村の半分は漁師で、当然、親戚や友人知人も多い。漁村の疲弊は農村よりも早く、より深刻だった。乱獲の問題もあるが、それ以上に水産物の輸入が漁民を追いつめた。
日本列島の主要な海岸線の総延長は3万2000キロ、漁港数が約3000、およそ10キロにひとつの漁港があり、排他的経済水域や領海を含めると世界第6位の海洋国だとされる。その海にかこまれた日本が水産物の輸入では金額ベースで世界第1位、バブルのころは世界の貿易量の27%を買い占めていた。平均関税率は4%だ。
漁師が減って輸入が増えたのではない。その逆である。昭和63年には50万人いた漁業就業者は20万人に減り、半分が60歳以上だ。食えなくなった漁村が原発経済に依存せざるを得なくなった構図がある。54基の原発は列島をぐるりと囲む海岸線に立地している。
一方、山村はどうか、日本の国土の67%が山林で、その40%およそ1000万haが造林面積だと林業白書にある。昭和39年東京オリンピックの年に木材が自由化され25%の関税がゼロになり、世界中から安い木材が殺到した。90%あった自給率は18%まで低下し、山村は暮らしの土台を失った。限界集落への第一歩だった。元気を失った山村にやってきたのは「産業廃棄物処分場」だ。
山と山の間には谷川が流れている。私たちの若いころまでは、田んぼの落水が終わるとその谷川の水を飲んでいた。何代にもわたって飲んできた清潔な谷川の水は飲めなくなり、水道の蛇口に浄水器をつけ、ペットボトルの水を買って飲むようになった。これが経済成長のメカニズムである。それゆえ、経済が成長するほど人は不幸になる。
敗戦後、戦後復興は植林から、と国をあげての大合唱によって植えられた杉や桧は伐採期を過ぎ、毎年花を咲かせ、花粉を飛散させて花粉症の発生源となっている。さながら造林に汗を流した先人たちの怨霊が乗り移って子孫に報いているかのようだ。
(続きは 【提言】変わろうニッポン 新しい時代の始まりへ で)