歴史から学ぶこれからのJA女性組織
これまでの活動にもっと自信を
女性のセンス生かして
◆地域を動かした女性部活動
榊田 まずは自己紹介をかねて、これまで地域でどのような活動をされてきたか、お話しいただきたいと思います。それでは会長になられた順番に大蔵さんからお願いします。
大蔵 私の生まれは横浜です。そこで6才のころ、第2次世界大戦の戦禍に遭い、言葉に尽くせない恐怖を味わいました。その後は祖父のいる信州に疎開しましたが、非農家だったので食べ物がなく、栄養失調で学校にすら行けないこともあるくらいひもじい思いをしました。その経験から、食べることはどんなことがあっても生きるうえで大切だと思って生きてきました。
それから20年後、滋賀県大中の新農村に花嫁第一号として自ら進んでいきました。今になって思えば、幼少のころに戦争で経験した飢餓の思いがそうさせたんだと思います。その後は農業者として減反など農政に振り回されながら生きてきました。
女性部活動で印象に残っていることは「石けん運動」です。滋賀県では昭和52年、琵琶湖に赤潮が発生しました。農業に携わる者としてこれを黙って見逃すわけにはいかないと、翌年、当時の婦人組織協議会は「石けん使用宣言」を始めました。当時知事だった武村正義元官房長官は「婦人部の50%が石けんを使うようになったら条例をつくる」と約束しました。その後運動は加速し、4万8000人いた農協婦人部員のほとんどが粉石けんを使うようになりました。
その結果、昭和54年に合成洗剤使用禁止を盛り込んだ「びわこ条例」が可決されました。以前は10%たらずだった粉石けんの使用率が条例施行直前には県全体の約70%になりましたから、いかにすごい運動だったのかがわかります。安全な食料を生産するためにはきれいな水と土地を守ることが必要だという熱い思いが部員を動かし、滋賀県で日本最大の成果をあげたのではないでしょうか。
福代 私は40年近く女性部活動を続けてきました。あるとき新任の担当課長さんから「今のJA事業の大きなものは女性部活動から始まったものが多いですね」といわれ、認めていただいたことにとても感動し、今でも心に残っています。女性部活動がJAとの連携で大きな事業に展開した例はいくつもあり、そのひとつに福祉事業があります。到来する超高齢化社会を見据え、部員間の助け合い活動にしようと平成4年から女性部でヘルパー養成研修を始めました。その後活動は女性部にとどまらず、JAの福祉事業として本格的にスタートしました。女性部とは別に研修終了者を対象にした「やすらぎ会」という組織を立ち上げ、現在は受講した人数が1000人を超え、JAの福祉事業、あるいは地域の福祉を担っています。JAとの連携と信頼関係はとても重要と考えています。
瀬良 私は18歳でJAに入組し、職員として41年間務めました。信用共済分野を中心に業務に携わりながら合併を3回経験し、最終的には3年間支店長をしました。支店長時代に「JA合併してJAのメリットが薄れた」という声を組合員から聞き、みんなに喜んでもらえるJAにするためにはどうしたらいいのかと考え、直売所を立ち上げることにしました。
家庭菜園をやっている方も多いので直売所に野菜を出荷してもらい、地域の方に買いにきてもらう地産地消の場にしようと思ったんです。直売所のついでにJAに寄って帰ってもらう相乗効果もねらいました。プレハブではありましたが、直売所ができたことで女性たちを中心に組合員の方たちがとても喜んでくださいました。消費者も「あの人が作ったものだから買おう」と直売所の中でコミュニケーションも生まれるようになり、地域に密着したJAへと生まれ変わることができたと思っています。
(続きは 【特集】座談会・JA全国女性協の元・現役会長が語る で)