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この人と語る21世紀のアグリビジネス

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植田和伸氏

農業現場に即した製品開発で"元氣な農業"を支援し続ける
(株)クボタ 常務取締役・機械営業本部長 植田和伸氏

 第2次大戦後の食料難の時代を乗り越え、国民へ食料を供給しつづけて今日の豊かな社会を支えてきたのは、農業だといえる。そしてその農業生産を省力化しながら生産量を飛躍的に伸ばすことができたのは、農薬や肥料の発展と重労働な農作業から生産者を解放した、数々の農業機械の開発と普及によるといえる。(株)クボタは常に日本の農機メーカの先頭に立ち、農業現場のニーズに応える農業機械を開発してきた。そこで、植田和伸常務に農機開発の歴史から今日の農業についてなどを語ってもらった。聞き手は本紙論説委員の坂田正通。

◆創業120年農業・水・環境を事業の柱に

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うえた・かずのぶ
昭和22年生まれ。昭和44年香川大学経済学部卒業、久保田鉄工(株)(平成2年4月(株)クボタに社名変更)入社。平成6年作業機営業推進部長、8年作業機事業推進部長、12年機械営業本部副本部長、16年取締役に就任し関連商品事業部担当、17年農業施設事業部担当、同年機械営業本部長(現在に至る)、18年常務取締役に就任し現在に至る。

 ――御社の以前の社名は久保田鉄工(株)で、元々は鋳物の会社としてスタートしたと聞きましたが…
 「1890年(明治23年)に大阪で創業しました。社名は創業100周年の1990年(平成2年)に現在の(株)クボタに変えました。創業時は水道用鋳鉄管を製造する会社としてスタートし、その後1922年(大正11年)に農工用石油発動機の製造・販売を開始しました。そして戦後になって1947年(昭和22年)に耕うん機を開発。昭和30年代から40年代にかけて稲作一貫体系のためのさまざまな農業機械を開発してきました」。
 ――具体的には…
 「耕うん機からトラクタになり、稲を刈る方ではバインダーとコンバインですね。田植機については歩行田植機から乗用田植機になります」。
 ――農業機械以外にもいろいろな事業をされていますね。
 「外からご覧になると分かりづらいと思いますが、農業機械に代表される『農業』と、水道用鋳鉄管の『水』そしてその関連から上下水処理施設など『環境』の3つがクボタの事業の柱です」。

◆革命的だったトラクタなど農業機械の登場

 ――トラクタを発売されて今年が50年だそうですね。
 「1960年(昭和35年)に畑作用乗用トラクタを開発して商品化しましたが、それから50年ということです。水田用が製造販売されるのは2年後の1962年(昭和37年)からです」。
 ――なぜ畑作用が早かったんですか。
 「トラクタは、もともと畑作用として海外で開発されましたが、そこで使われているトラクタを水田に持ってきても使い物になりません。水田は稲作圏固有のもので、牽引力を持たせて軽くつくり、しかも泥田のなかで作業する自動化装置も入れないとうまく稼動できません。そこが作業条件がシンプルな畑作と根本的に違いますから、水田用トラクタは難しいんです」
 ――かつては牛や馬を使ったり人が作業をしていたわけですから、農業機械の登場は革命的なことですね。
 「牛馬から歩行用耕うん機になり、乗用するトラクタの時代になるわけですから…」
 ――それを御社がリードしてきたわけですね。
 「数年前にお客さまにアンケートをしましたら、当時の作業を思い出され、『農業機械ができてあっという間に作業が終わり“夢のようだ”』『助かりました』という声がたくさん寄せられ読んでいて胸にジンときました」

◆日本経済の高度成長を支えてきたのは農業

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 ――日本の農業のために農業機械が果たした役割は大変に大きいですね。
 「農業機械が果たした役割には、まず重労働軽減ですが、それ以上に大きな役割は、日本の高度成長を支えたということです。昭和30、40年代の高度成長は農村の“金の卵”といわれた労働力が第2次産業に流れたからです。それを可能にしたのは、農業機械などで農作業を省力化でき、余剰労働力が生まれたからです。そのことが最近は忘れられていると思います」
 ――稲作だとどれくらい省力化できるのですか。
 「稲作の年間労働時間、10a当たりで、昭和25年205時間が、今では、30時間ぐらいに省力化されています」
 ――農業機械が導入されたピークはいつですか。
 「第1次オイルショックの昭和49年から51年ころが導入のピークでした。いまは、自分の農作業にあったものでないと更新してもらえませんね」
 ――そうするとメーカとしてはいろいろなものを開発していかないといけないわけですね。
 「いままでにさまざまな機能を開発してきましたし、これからも新しい技術はでてきます」
 ――新しいアイディアがでてくるのは農業の現場と接しているからですね。
 「われわれは現場主義に徹しています。その一番典型的なものは、手植えしていた苗を田植機により、バラマキ箱育苗で移植できるようにしたことです。最初は農家から拒否されましたが、お寺とか公民館を借りて稚苗移植について説明し、ご理解をいただいて田植機を普及させていきました。ハードを売る前にソフトを売ったわけですが、2000年の歴史がある稲作体系を変えたわけです。農家に役立つということがクボタの原点です」

◆農業活性化・環境保全を支援する“eプロジェクト”

 ――御社では「eプロジェクト」を推進していますが、どういう内容ですか。
 「私たちは“元氣農業”をテーマに日本農業を応援していますが、より具体的に地域・農家・学校などと深く広く関わり、地域環境保全や日本農業活性化を支援するというのがプロジェクトの目的です。“e”はearth=地球にやさしい、ecology=環境保全、education=教育、eat=安全で安心な食料、という4つの視点を表しています」
 「そして取り組むテーマとして、(1)耕作放棄地の再生支援(地域支援)、(2)小学生の農業体験支援(農育支援)、(3)ご当地ブランド・産直品の全国PRや志ある農家の支援、(4)バイオ燃料用作物栽培支援(環境保全)、(5)グループ全員参加でボランティア活動を展開(地域貢献)の5つを実践していくというものです」
 ――立派な社会貢献活動ですね。耕作放棄地の再生支援ではどういう支援をされているのですか。
 「全国14県23テーマを選び草刈りや耕うん整地などの農地への復元、播種や収穫などの作物栽培作業の一部を農業機械作業での応援を通じて支援しています。面積としては55haです」
 ――ボランティアというのはどういう活動ですか。
 「昨年8月に“eディー”を設定し、全国400か所に7000人の社員が出て河川周辺の草刈りや清掃を行いました」

◆いまこそJAグループが力を発揮するとき

 ――JAグループとは、一緒に製品開発をしていますね。
 「そうです。最初はシンプル農機、その後のHELP農機、そして現在の独自型式の製品開発に全農さんの指導をいただきながら積極的に対応してきています」
 ――最後にJAグループへの要望や期待をお願いします。
 「要望はありませんが、期待はあります。農業への期待が高まる今は、組織力、営農提案力、資金力というすばらしい力を持っているJAグループが力を発揮するチャンスだと思います。地域にある農産物のブランド化ができるのはJAだけですし、地域にあった営農指導とか、高齢化にともなって集落営農が地域農業の受け皿になっていくと思いますが、そういう担い手の育成とか、農家への経営支援などやるべきことはたくさんありますし、それをすることでJAグループの存在感はますます大きくなると思います。組合員・農家のみなさんが元気に農業をできるように、がんばっていただきたいですね」
 ――今日はお忙しいなかありがとうございました。

インタビューを終えて  
 植田常務は、大阪本社に勤務。東京出張の日にインタビューした。クボタは徹底した現場主義ですという。歩行耕うん機から乗用トラクターへ。そして田植機の普及、農家は、田植えの機械化は無理と思っていた。入社した時はちょうどそんな時代。集落を説得して廻った、いわばソフトを売って歩いたわけです。機械化で農業が変わり、農村の若者は都市に移動し、労働力として日本の高度成長を支えた。残った農家の後継者は兼業が可能になり豊かな地域社会を築いた。この現象を社会貢献としてもっと知って欲しいという。
 植田常務は、香川県出身。親戚や周りは四国の農家が多い。奈良に家を新築して12年前から大阪へ通勤。趣味は、園芸など庭弄り。「トリーテングにうそはない」が信条。手間をかければその効果はでる。手抜きすれば駄目になる。植物も同じ。庭木の剪定も楽しい。嫁さんは、花がすき、好みが一致と関西弁でおっしゃる。野球はソフトバンク・ホークスのファン。南海時代からの追っかけ。大阪から九州へと転勤との関係もある。(坂田)
【著者】インタビュアー坂田正通(本紙論説委員)

(2009.03.04)