シリーズ

21世紀日本農業の担い手をどうするか-常識の呪縛を超えて-

一覧に戻る

第4回 米戸別所得補償モデル事業と農業構造政策の思想転換

・農業構造政策は放棄されたのか
・直接支払いから不足払いへ
・構造改革促進的な定
額部分
・大規模経営は自己完結的経営たりうるか

 戸別所得補償制度はもともと作物別の直接支払い政策として構想され、受給者を特定=選別しないものだった。このため、構造改革に逆行するという批判が当初からつきまとった。しかも、米戸別所得補償モデル事業(以下では米モデル事業と略記)は水田での先行実施となったことから、構造改革の遅れた水田農業の構造を固定化するという批判が改めて各方面から投げかけられている。そこで今回は、米モデル事業が構造改革に逆行する内容をもったものなのか否か(注)、そもそも今日において構造政策はいかに構想されるべきなのか、という点から接近することにしよう。

◆農業構造政策は放棄されたのか
 
 戸別所得補償制度はもともと作物別の直接支払い政策として構想され、受給者を特定=選別しないものだった。このため、構造改革に逆行するという批判が当初からつきまとった。しかも、米戸別所得補償モデル事業(以下では米モデル事業と略記)は水田での先行実施となったことから、構造改革の遅れた水田農業の構造を固定化するという批判が改めて各方面から投げかけられている。そこで今回は、米モデル事業が構造改革に逆行する内容をもったものなのか否か()、そもそも今日において構造政策はいかに構想されるべきなのか、という点から接近することにしよう。

◆直接支払いから不足払いへ
 
 米モデル事業は固定的な直接支払いで構想されていた原案に「変動部分」という不足払いの考え方が接ぎ木されたものである。計上された予算から逆算すると、1俵(60kg)当たり1,200円弱の米価低落に備えたといえる。米価下落の影響は大規模経営ほど大きいから、変動部分の導入は当初よりは大規模経営の下支えを強く意識した政策選択だ。これに対して、定額部分は規模に対して、より中立的であるから、小規模経営にとってのメリットが相対的には大きい。したがって、全体的にみれば、すべて定額部分で構想されていた原案と比較して、予算の41.3%にまで変動部分を導入したことで、岩盤対策の性格が薄められ、大規模経営を相対的に優遇する方向に修正したと評価することができる。米モデル事業は従来の民主党の小規模経営重視路線と農水省の構造改革路線の折衷案という性格をもったものだといえる。

◆構造改革促進的な定額部分

 しかし、定額部分も決して農業構造の固定化に貢献するわけではない。第1に、全階層の再生産が保証されてはいないからだ。平均の米作付規模の経営の標準的な生産費用と標準的な販売価格の差額を定額部分として補填するという定義から明らかなように、平均作付規模以下で、より高い生産費の経営では生産費と販売価格の差額は定額部分によって補填はされるが、赤字が全て解消されるわけではない。実際、稲作付2ha未満層では家族労働費は全額が補償されてはいない。
 第2に、全算入生産費水準でみると、黒字を達成するのは5ha以上層にまでせり上がる。転作割合が40%だとすれば、水田経営面積8.3ha以上に該当するから、米モデル事業が「バラマキ」ではないかといわれていることは妥当ではない。
 第3に、たしかに0.5〜1.0ha層でも定額部分の補填によって10a当たり4,485円という「所得」が発生し、補填が零細な農業構造を温存・固定化する側面をもっている。とはいえ、これらの層の所得は0.71haの米作付に対して3万2,000円程度にすぎず、定額部分の存在がこれらの階層の稲作継続の経済的誘因になっているとは到底いえないだろう。
 第4に、15ha以上層ともなると、全算入生産費でも家族労働費の水準を超える経済余剰が発生しており、規模拡大への強いインセンティブが米モデル事業によって生まれることが容易に予想できる。
 以上のように、この事業による補填は決して全農家丸抱えではなく、平均規模を単価算定の根拠にしたことによって大規模階層に一層の規模拡大に対する強い経済的インセンティブ生み出す可能性が高い。つまり、一方では全階層底上げ的な役割によって食用米・水田農業生産への意欲が全体として引き出され、地域水田農業における多様な担い手にそれなりの存在意義が与えられるとともに、他方ではこの条件の下で形成される階層間の生産力格差拡大によって、構造改革促進的な役割をもちうると評価されるのである。

◆大規模経営は自己完結的経営たりうるか
 
 大切な点はこのような構造改革路線の方が自給率向上を達成する上では選別的な路線よりもはるかに現実的だということである。
 たとえば、近年、大規模経営においては耕作や作業受託の範囲がますます広域にわたることから、圃場の水管理、農道・畦畔等の管理・除草作業などについて大きな困難を抱えるケースが数多くみられる。しかも零細な農地が分散している場合には大規模農業経営の限られた労働力だけではカバーできないこともあり、経営赤字の原因となることも少なくない。このような問題を解決するためには「地域の農地は地域で守る」という観点から、できるだけ農地や農作業の委託者や地元の農家にこれらの作業を再委託していく方策が考えられる。
 表は大規模農業法人に関する二つのアンケート調査結果に基づいて、法人農業経営が引き受けた水稲経営面積のうち、作業を他の個人農家や組織などに再委託している経営数の割合を示したものでる。再委託先は個人の担い手や集落内の営農組合となっており、少なくない経営で再委託が実施されていることが明らかである(ただし、一般農業法人の一部に、いわゆる枝番方式の集落営農が含まれているため、耕起・代かき、田植、収穫といった基幹労働の再委託がやや多く出ている点を割り引く必要がある)。
 この事実は地域農業の担い手としての大規模農業経営の意義は大きいが、大規模経営だけで自己完結的に全ての問題を解決できるわけではないことを示している。地域農業の維持・発展には経営的な担い手だけでなく、作業や資源管理などの多方面にわたる多様な担い手の存在が不可欠だというべきであろう。

水稲作業の再委託実績のある法人割合

 ◇

()この点の詳細は、谷口信和「予算面からみた戸別所得補償モデル対策の性格をめぐって」『農村と都市をむすぶ』2010年4月号、43〜54頁を参照されたい。

【著者】谷口信和
           東京大学大学院農学生命科学研究科教授

(2010.04.08)