農協は指導はするが主導はしない
結果責任はあくまでも組合員
仲野 まず、農家の人がいかにしてお金を得るかということ。全体を見渡してそのことをしっかりとやるのが農協の役目だと思っています。
私は鴨川の生まれですが、初めて富里に来たときは広くていい土地だと思いました。しかし換金性が低く、効率の悪い農作物しかなかった。時代が変化している中で、農家だけは同じことをやっていたんですね。そこでいかにして農家が潤うかを考えました。それは機械でもない、技術でもない、どうやって農作物を売るか、ということです。販売先を確保し、相手がどういうものを求めているかを把握して情報をつなげることを考えるのが農協の大きな役割だと感じました。
農家がやる気を出すためには、価格をしっかりしなくてはいけません。そのためにもまずは共選・共販制度をしっかり作ろうということで、当時39あった集落、つまりそれだけの数の出荷組合があったのですが、これらの気持ちを1つにまとめるためのリーダーを育てました。リーダーを育てながら農協は販売を引き受けるのを同時並行し、そして共販・共選制度を伝えていく。このことが一番苦労しました。当時の農協には販売専門部署がなく、特産物の販売力もないということで、400人の組合員はみんな専門農協の方に行ってしまった。しかし根気強く3年ぐらい指導を続けてなんとか自立できるようにしたら、農協は手を引きました。
今村 まさに自己責任の原則ですね。結果責任まで農協が引き受けてはいけない、と。
仲野 農協は、指導するが主導しない。結果責任はあくまでも組合員の方になければなりません。しかし規格を統一すると、必ず人それぞれの想いやエゴが出てきます。そこに割って入るのは、やはり技術指導などを通して信頼関係をつくってきた農協しかありません。
また当時からスイカ、ハクサイなどの特産品はあったけど、それに対抗しても負けてしまうということで、新作物を導入しようということになり、ゴボウ、トマト、春ニンジンなどに取り組みました。
◆地域の人との結びつきより強く
失敗も重ねましたが、それに対してわれわれを悪く言うということはありませんでしたね。営農指導員は肥料農薬を推進するわけでもなく、共済・金融をやるわけでもなく、講習会をやったりして地域の人との結びつきを強くしていましたから。
今村 新作物を導入したのはもっぱら若者だったのでは・・・?
仲野 いえ、必ずしもそうではありませんでした。年配の方もこれをつくればいくらになるよ、とちゃんと説明すれば入ってくれました。しかし難しかったのはスイカです。重鎮がいっぱいいて、組織を変えましょう、と言ってもまったくダメでした。当時、この地域には45の支部があって、それぞれがトップ競りを得たいために争っていたんですよ。
今村 それはスイカの品種とかが違ったってことですか。
仲野 いやそうではなく、単に生産支部が異なるということです。部落別の下部組織があって、それぞれがロットを組んで、価格を決めて、1つの生産地の中で競争していたんです。「こんなことやってても市場が肥えるだけで、あなたたちは潤わないでしょ?」と言ったんですが、「どうせ変わらないだろ」と冷めてましたね。
そこで目先を変えてやろうということになって昭和47年ごろから黄色いスイカを導入したり、一元化のメリット、バラバラにやっていることのムダなどを説いて回っていくうちに、若者たちが理解してくれました。規格の統一には生産者から「なんで作りにくいものを作らせるんだ?」などと文句を言われましたが、「マーケットは生産者側ではなくて、消費者側にあるんだ」ということで毎晩、黒板に書いたり、酒飲みながらとくとくと説いたりしているうちに、最後は全員が賛同してくれましたね。共選一本化の時には市場からの妨害もありましたが、それを妨げるのも農協の役目でした。
◆一度成功しないと人は成長しない
今村 それがすべて出来上がったのはいつごろですか。
仲野 昭和62年ぐらいです。大変なエネルギーと時間を使いましたが、組合員の農協の販売事業に期待するものは大きくて、「農協がやってくれるなら」という意識は強かったと思います。地域で信頼されたという土台ができたことがなによりでしたね。
今村 共選共販制度を作ったら、次は加工にも手を広げましたね。
仲野 平成7年に加工業務用野菜と出会ったのですが、これは新鮮でした。加工卸業者は農業のことを知りませんが、農業者は加工卸のことを知りません。例えばトマトひとつをとっても、我々はゼリー質が多いものを作るし、切る時もタテに輪切りします。しかし加工業者はパンに挟んだ時に食べやすいようゼリー質が少ないものを選ぶし、切り方もヨコ切りでした。家庭で食べるものと外食などでは求められるものがまったく違うというのが、当時は驚きでしたね。こうして市場にないノウハウを身に付ければ、農家の手取り優先の販売が出来ると感じました。
さらにスーパーとの取り引きを始めたことで、常に情報収集を考えるようになりました。スーパーのバイヤーはとにかく、日本全国はおろか世界の農作物動向も把握しているので、国内他産地の収穫時期や数量から輸入量まですべてわかります。農家所得向上のためには中間コストを省くことも重要ですが、他の産地の動向やバランスなどの情報も重要です。それにすばやく対応するためにも、最近は販売先を徐々にイオン、セブン&アイ、ヤオコーなどの直販に切り替えています。
今村 1つ1つの共選共販組織を育てて、加工への対応、直販への切り替えなど、常にその時求められているものに応じていかなくてはならない、ということですね。
仲野 やはり時代変化に対応できる産地でなければいけません。JAの経済事業、特に販売は柔軟に変わっていく必要があります。例えば天候次第で産地自体がつぶれてしまうこともあるわけですから、それに対応するためにも、120%栽培方式などを導入し、悪くても100%獲れるようにしています。そして人間なんと言っても重要なのは成功体験です。失敗も重要ですが、一度成功しないと成長しません。これらに対応できる人材をいかに育てていくかが重要ですね。
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【略歴】
(なかの・りゅうぞう) 昭和24年2月生まれ。昭和44年富里村農協に入組、59年営農販売課長、平成6年経済部長、15年常務理事、千葉県畜産協会理事・千葉県青果物補償協会理事・JAグループ千葉県営農事業推進協議会長。