JAいしのまき
「絶対に米を収穫する」
◆除塩して飼料用米を作付け
北上川沿いの田園地帯にある中野集落で6年前に結成した生産組合の佐藤幸一組合長と渡辺徳雄さんは、そのとき、耕起作業の真っ最中だった。
強烈な揺れが襲い、トラクターを田んぼに残したまま集落の人たちの安否確認に回っていると「津波が来る」という話が伝えられた。北上川が注ぐ追波湾から10kmも離れているこの地域にとって、それは信じられないことだった。
だが、あたりが暗くなるころ、田んぼの排水路を津波は音もなくひたひたと遡ってきた。「不気味でした。どこまで来るか分からなくて…」。そう振り返る佐藤さんは水路から水があふれ歩けないほどになったため車で高台に避難。夜が明けると、田んぼは一面、潮水に浸かっていた――。
河北地域は200haほどが浸水し一部はヘドロも堆積したが重機で撤去され、5月から除塩作業が始まった。中野生産組合は水稲15haと大豆25haの作付を予定していたが、JAとの話し合いで大豆の代わりに飼料用米を作付けることになった。
計40ha分の育苗作業を4月中旬からスタート。水田には5月の連休過ぎにようやく水が来て、1週間かけて掛け流しをした。「暗渠を全開して水をとにかくだーだー流せ、と。代かきも2回。2人で80ha分も代かきやったわけだから、目が回るような大変さでした」と渡辺さん。
そのかいあってか、塩分濃度は下がり、田植えからほぼ1カ月、今は葉色も濃く生育は順調なようだ。今後は水を入れ替えてさらに除塩し中干しもする。集落から委託された農地も多く「絶対に米が穫れるようにがんばる」と2人は意気込んでいた。
(写真)
上:北上川沿いの農地。河口沿いでは3カ月後でも農地にがれきが
中:生育は順調だという中野生産組合の佐藤さん(左)と渡辺さん
下:除塩して作付けした水田
農協
苦難のなか 一歩踏み出す
国の責任で農地の復旧を
JAいしのまき管内では水田1万2300haのうち、3700haが津波被害を受けた。そのうち中野生産組合のように除塩して営農を再開したのは1000haある。
しかし、残る2700haほどの農地はがれきとヘドロが今も流れ込んだままだ。中野地区から河口沿いに海に向かうと農地も集落も壊滅してしまった光景が広がる。
齊藤賢仁代表理事組合長は「地域によって被害の程度があまりにも違う」と話す。
多くの児童が津波の犠牲になった大川小学校のある釜谷や長面地区は北上川にかかる橋も一部が陥落。水田も集落自体も地盤沈下で水没した。6月10日現在、石巻市では155カ所の避難所に9800人が生活している。
水没した大川地区は基盤整備が完了し今年から負担金の償還が始まることになっていた。
「田んぼは海、収入もない避難所暮らし。どう償還するのか…。津波は天災。国の責任でとにかく早く農地を元に戻すべきだ」と齊藤組合長は話す。
具体的な要望ははっきりしている。まずは国の責任でがれきとヘドロの撤去を、である。
中野生産組合の佐藤さんも「われわれは潮水だけで助かった。もっと被害の大きい地区はとにかく農地を元にもどしてほしい、が農家の思い」と主張する。
(写真)齊藤賢仁代表理事組合長
◆意欲継続できる目標を
第一次補正予算には被災農家経営再開支援事業がある。農家が復興組合をつくってがれきの撤去などを行えば、たとえば10a3.5万円を交付するというものだ。
しかし、現地では「がれきと一口に言うが、現地を見てがれきを定義してみろや」との声も聞いた。
実際、被災地で「がれき」と称されるものには住宅の建材、コンクリートの塊のほか、車、船、根こそぎ流された防風林などなど、唖然とさせられる物量だ。
そんな状況から、支援事業を被災者が活用し営農と生活の再建に向かうためには、まずは国が惨憺たる被災農地に手を打ち、その後に、農家自身が農地再生に関わるといったビジョンが必要だという。JAは土地改良区や農業委員会などの実務者レベルで復興プロジェクト会議を設置、地区ごとの方向を検討している。
「生産基盤を最低でも今の規模に戻すことがわれわれの務め。農業への意欲が途切れないよう目標を打ち出すことが今は大事だ」と齊藤組合長は強調する。
(写真)津波に襲われたJAいしのまき野蒜研修センター
JA仙台
野菜農家が共同で営農再開
仙台湾に面する荒浜地区には荒涼とした風景が広がる。仙台東部道路を超えると大破した住宅の向こうに海が見える。農地は1600haも被害を受けた。がれきは住宅地域のみ撤去。農地は7月からだという。再生には、ヘドロの処理や全壊した4つの排水機場の修復など課題が山積。復旧には3〜5年、あるいは10年だ、という人もいる。
六郷地区の10集落のうち5集落が壊滅的な被害を受けた。農家の人も含め住民はJA仙台の六郷支店などを避難所にしてしのぎ、一部は6月になってようやく仮設住宅に集落ごと移った。集落単位で仮設に移ることは住民の総意として行政に要望していた。
仮設住宅を訪ね二木町会長の阿部東悦さんに会うと「避難所を提供してくれたJAには感謝してます。これから町づくりをどうするか、みんなでまたもとに戻りたいですね」と話した。
阿部さんの向かい棟に入居した堀江良三さんは集落の生産組合長で「朝早くから農作業に出かけていますよ」と教えてくれた。
実は被災した野菜農家が複数の集落から参加して、新たに生産組合を5月末に設立したのである。堀江さんはその「イーストアグリ六郷」の副代表に就いた。代表は隣の集落の三浦善一さんだという。
JA仙台は、震災後、避難所暮らしをする農家から「自分たちは生まれたときから百姓なんだ。なんとか農業ができないか」と農地のあっせんを依頼された。JAが調整に動いたところ、農地は津波被害を免れた隣接地区の農家組織から借りることが決まった。転作分の2.5haを六郷の野菜農家に使ってもらおうという話になった。
JAはその農地を使い組織をつくって野菜栽培をすることを提案。その組織に対して金融支援や農機具の貸し出しなどのバックアップを行うプランを提案したのである。この案に10人の野菜農家が参加した。JAからは育苗ハウス10棟も借り、今、朝早くから栽培を軌道に乗せるために仮設住宅から農場に通っているのである。
栽培計画には、小松菜、ホウレンソウ、トマト、キュウリ、カボチャ、キャベツなどなど多品目が並ぶ。使ったことのない農地のためリスク分散のために多品目をつくることにした。
新たな協同の試み
もっとも六郷地区の農家は腕に覚えのある野菜農家が多い。これまでも都市近郊という立地を生かしてレストランと契約栽培する農家もいるなど、個別経営へのこだわりが強かった
「それだけにこれまで野菜生産での共同化はありませんでした。今回が初めてです」とJA仙台営農部の平間正浩副部長は話す。
10月には震災で延期されていたファーマーズマーケットがオープンする。そこにイーストアグリ六郷の野菜を出荷してもらいたいというのがJAの要望でもある。並んだ野菜は復旧・復興へのシンボルともなりそうだ。それは被災地での新たな協同の成果でもある。
平間副部長は「農地再生には時間がかかるが、その間、できるだけ多くの農家に農業に携わってもらう仕組みが大事。仙台市の町づくりにも関わって、農地と集落の再形成のビジョンを示していきたい」と話す。
営農意欲をいかに持続してもらうか――。仙台でも石巻でも、それが復興に向かう鍵になると行動を起こし始めている。生活拠点となるコミュニティづくりへの支援も欠かせない。こうした現場の意欲を奪うような復興構想であっては決してならない。
漁協
宮城県漁協・阿部力太郎代表理事理事長に聞く
「浜はギブアップしていない」
誰のための復旧・復興なのか?
宮城県漁協では組合員1万633人のうち453人が死亡・行方不明となった。支所も51のうち40が流出・大破。「漁師の命」の漁船を1万2000隻以上失った。
陸の加工場、海の養殖施設なども大打撃を受け「なにも残っていません。がれきと一緒に丸まって団子になって浮いていました―」。
あれから100日が過ぎた今、浜ではがれきの撤去を進めながら、漁業の協業化を軸に復旧に向けて歩み始めている。再生に向け、漁船の共同利用という「新たな協同」も話し合われている。
ところが県知事と政府の復興構想会議は民間資本を導入しようと「水産特区構想」を打ち出した。
この構想に阿部理事長は「誰のための復興なのか? 浜はギブアップなんかしていない。みんながんばっているんです」と強調している。浜からの再生への思いを聞いた。
◆何としても海に戻る
被災直後は漁業者なのに「海を見るのも嫌だ」という人もいました。
1カ月すぎた頃から、復旧作業を開始しようという気持ちになって、自分たちでがれきの撤去を始めました。しかし、作業機械も流出しているからほとんど手作業。そこに自衛隊や消防、ボランティアが支援に駆けつけてくれ、浜の組合員も元気を出しながら必死になって、連日、がれきの撤去作業をやりました。
2カ月すぎてようやく、われわれは漁業者なんだ、何としても海に戻らなくてはならないと、これからの生産活動をどうするか、漁協を中心に議論が始まりました。
◆グループ化へ話し合い
今はホタテやカキ、ワカメ、ノリなどの種を取る作業、採苗が始まっています。この採苗作業はみな自力でやっていて、育てた種を9月ごろから養殖のためにいかだを組んで海に入れるわけです。
そのためには海の中のがれき撤去を早くやってもらわなければなりません。それができたとしても生産までは最低でも1年かかる。だから、来年11月ごろから収入になれば、ということですし、カキの場合は2年かかるから、お金になるのは3年めです。
一方で、漁船は壊滅状態。われわれの沿岸漁業は19トン未満ですが、1隻建造するには3〜4カ月もかかるんです。エンジンを積み込み、サンマを獲る装備をしたりすればそれぐらいかかる。これを何千隻も一気には造れませんね、日本全国に頼んでも。
そこで漁協としては、全国に古くなって使わなくなった漁船があったら譲ってほしいと呼びかけています。
そのうえで今、5人なら5人の漁業者グループを組んで3隻を共同利用する方法はどうか、と話し合いをしています。
(写真)名取市の閖上(ゆりあげ)漁港。漁協の支所が大破していた
◆漁協が再生を支える
もともと陸上の加工処理施設などではグループを組んだりして協業をしてきました。浜ごとに20人、30人でカキの加工場をつくるとか。しかし、漁船は自分で最低1隻は持つものでした。
それを海の作業も陸の仕事もすべてグループを組んで協業でやってみようか、という話も浜によっては出てきたということです。
日本の漁業は家族漁業です。だから、グループでまず立ち上がって、力が付き完全な復興となれば、できれば個々の家族漁業に戻していきたいと思っています。そのために漁協が受け皿となって、たとえば、復興のための補助事業の自己負担分を漁協が一時立て替えて、リース事業のようなかたちで責任を持って再生させる。漁協の責任、役割は重いです。
◆なぜ、民間資本なのか?
もうひとつ復興のために重要なのは、漁場、漁業資源を徹底して管理することです。漁業権があるからといって、やりたい放題できるということではないですから。自立再生のためにはそれが前提だということです。
ところが特区構想が出てきた。これについては先祖代々、漁業をやってきているわれわれに何の事前説明もなかったことがまず問題です。
さらにわれわれが漁業権をさも独占しているというような言い方をされた。しかし定款上、独占はしていませんし、門戸は広がっています。民間企業も組合員になれば漁業はできるんですよ。それなのに、大震災で漁師が頭を抱えているとき、なぜ、特区などが出てくるのか。
漁師は夢とロマンがなくてはできないんですよ。青森の大間のマグロ釣りをテレビで見るでしょ。1年かかって500万のマグロ一本を狙う、あれなんです。それなのに知事が言うようにサラリーマン化して給料で生活を支えるようでは漁師ではないです。漁師には定年は不要です。
後継者には、自分の船の船頭、船長となり、魚を追いかけたり、ノリ、ワカメ、ホタテ、カキ、ホヤ、銀シャケの養殖に命をかけるんだ、と漁業に打ち込んでもらいたい。われわれはそういう後継者が残れるような、浜に残っても生活できるような環境をつくってやるかどうかです。
知事の構想はわれわれ漁業者としては到底受け入れられません。誰のための復旧、復興、自立、再生なのか? われわれ漁師がギブアップして、もうどうにもならないから民間資本を、ということから特区構想が出てくるなら分かります。
しかし、浜はギブアップしていない。県沿岸に浜は1000以上あります。国や県が支援してくれれば漁業は浜から再生するんです。
生協
「届ける」業務が安心を生んだ
組合員15万人訪ね安否確認
生協は店舗や共同購入、あるいは個配事業で「食」を中心とした供給事業を展開している。供給する食には産直品も多く、多くの生協が生産者との交流にも力を入れる。みやぎ生協もこうした事業方式で組合員の信頼を得て多くの人々の生活を支えてきたが、今回の震災では、こうした取り組みがいかに復旧・復興を支えるかを示している。本部を訪ね話を聞いた。
震災直後から、みやぎ生協の配送車が県内各地を駆け回った。
注文システムがダウンし共同購入による宅配事業はストップせざるを得なかったが、配送車を組合員の安否確認のために走らせることにしたのだ。車には全国からの支援で集まった支援物資を積み込み、飲料水、パン、缶詰、ティッシュペーパーなどなど、お見舞い品として届けた。3週間で15万人の組合員を訪ね安否を確認した。
災害時の緊急物資の供給協定を自治体と結んでいたことから、行政の依頼で避難所に物資を届ける仕事は現在も続いており、最終的には400万点を超える物資を搬送することになる見込みだという。また、栄養バランスを考えた「おかず弁当」の配達も行政からの要請で今も毎日行っている。
◆離島への配達も開始
共同購入事業は3月末に再開できた。避難所暮らしを続ける組合員からも注文が届く。だから、避難所への宅配も始めた。事業開始以来、初めてのことである。
仮設住宅へ入居する組合員も出始めたが、共同購入の配達拠点だった班長さんは、避難生活でその役割を担えなくなっていることも多い。そこで仮設住宅に近い生協支部の一角に配達拠点をつくり、組合員に商品を取りに来てもらうことにした。
これを石巻市で近くスタートさせるという。組合員どうし、あるいは組合員と職員とのコミュニケーションが生まれ被災した組合員を少しでも元気づけることになれば、というのが生協の考えだ。
また、仮設住宅を職員が回り注文があった品を生協店舗で集めて届ける「ふれあい便」も行っている。以前は、高齢者や体の不自由な人、妊婦などを対象にした事業だったが、震災で車など移動手段を失った人が多いことから対象を拡大した。いわば「生協版ご用聞き」である。
さらに共同購入活動は離島にも広がり始めた。これまでも気仙沼市の大島、石巻市の田代島、網地島へのフェリーによる配達は行ってきたが、6月15日から塩釜市の沖に浮かぶ桂島への配達も始めた。
(写真)桂島への配送。住民たちが商品を受け取る
◆「届ける」ことの意義
津波で島の商店は潰れてしまった。住民は日用品の購入を陸の親戚に頼んで送ってもらったり、あるいは自分の船で塩釜港まで出向くなど、四苦八苦していたというが、何人かが生協の共同購入事業を知り組合員として加入した。ただし、車が乗り込めるフェリーは行き来していない。そこでフェリー会社の協力も得て、職員が商品を塩釜港で積み込み商品だけ輸送、桂島の港で新たに組合員となった住民たちが自分たちで運び出すという方式で配達を実現した。
これらは、いずれも震災のなかで被災者を支えようと生まれてきた新たなサービスでありネットワークである。機関運営課の稲葉勝美課長は「安否確認にしても、緊急支援物資の搬送にしても、来てくれるだけでありがたい、という声を職員は受け取っています。届ける、顔を出す、という事業の意義をこれほど感じたことはありません」と語る。
◆産消提携が農の復興支える
みやぎ生協が県内JAや漁協などと農産物、海産物の産直提携を始めて40年になる。産直推進本部がその提携を進めてきたが、震災後は職員や組合員に向けて被災農業者、漁業者からの支援依頼を発信する役目を担っている。
推進本部からの情報をもとに稲葉課長も、ハウス内の泥出しボランティアをしてきたという。石巻市の野菜農家は2.5メートルの津波をかぶったがハウスは残った。この日の泥出しには組合員も駆けつけた。生産者は集まったボランティアに「営農は再開する」と話していたという。
産直推進本部には漁業者からの支援依頼もある。たとえば津波で流出してした養殖用いかだづくりに今、漁業者が取り組みはじめているが、海中に固定するための重しが1万個も必要だという。これはネットに石を詰めてつくる。この作業を手伝ってもらえないかという依頼だ。
ハウスからの泥出しにしても、この重しづくりにしても、具体的で分かりやすい。農業や漁業などの経験などなくても、これなら自分もできそうだと思えるのではないか。こんな具体的な情報が苦境にある産地から集まるのも、これまでの産直取引による生産者との提携関係があるためだ。しかも毎年数回、組合員と職員は生産現場での学習会を開いている。こうした積み重ねが現場への理解と共感を育て、今回、生産者の復旧・復興を消費者が具体的な行動で支えるという動きにつながった。
「単なる産直取引ではなく、産消提携だと言ってきました」と稲葉課長。危機のなかで、まさに「提携」の持つ力が示されたといえるだろう。
◇ ◇
宮城県では7月に生協やJA、漁協などが集まって「食のみやぎ復興ネットワーク」(仮称)を立ち上げる予定だ。第一次産業を核に地域の復興をめざす。みやぎ生協も地場産品をより活用した商品開発を考えていく方針だ。