農業からマラリア予防まで幅広い分野に効果
◆食料増産が最大の課題だった時代
1945年(昭和20年)8月、第2次世界大戦が終わったとき、日本農業は疲弊し食料生産は底をうっていた。第2次大戦に入る前から朝鮮や台湾から食料を移入していた日本だが、戦後の最大の課題は、いかに日本人の主食である米を増産するかだった。
戦争が終わった翌年の1946年(昭和21年)5月1日に11年ぶりにメーデーが復活し、皇居前広場に50万人が参加するが、5月19日には「飯米獲得人民大会」(食糧メーデー)が皇居前広場で開催され25万人が参集、大会代表が首相官邸に座り込むなどしたため、翌20日に連合軍司令官のマッカーサーが「暴民デモ許さず」の声明を出したが、人びとはそれほど食料(米)を求めていた。そして1948年(昭和23年)2月に「食糧配給公団」が発足。11月に主食配給が2合7勺となる(※1)。
さらに戦争が終わって5年経った1950年(昭和25年)12月に池田勇人大蔵大臣(当時)が「貧乏人は麦を食え」と発言し物議をかもすが、これもまだ食料が不足していたことを象徴するような発言だったといえる。
そして1953年(昭和28年)には大凶作となり米が大量に輸入される。米が完全自給を達成するのは1967年(昭和42年)の空前の大豊作となった年だった(1445万トン)。
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上:第1回「スミチオン剤50周年記念の森」参加者全員揃って記念撮影
下:昭和31年ごろの食卓を囲む子どもたち※5
◆収穫量を飛躍的に向上させたパラチオン
この時代、米を増産するための課題はいくつかあったが、その一つにニカメイチュウを主とする害虫の防除があった。この防除に大きな貢献をしたのが、殺虫剤「パラチオン」(独・バイエル社の商品名はホリドール)だった。1953年(昭和28年)に特定毒物に指定され、指導者の指導の下に共同防除で使用することとされていたが、ニカメイチュウなど水稲害虫防除に抜群の効果があったために、指導が十分行き届かないまま全国的に普及していく。
それまでの田植えは、その被害を避けるためにニカメイチュウの発生時期とずらして遅く行われていたが、パラチオンによってニカメイチュウの防除が可能となったために、台風が襲来する前に収穫を終わらせる稲作体系への変更が可能となった。これによって、直接・間接の被害が軽減され、米の収穫量は飛躍的に向上することになる。
当時、住友化学でも大分工場でパラチオンを製造しており、「食糧不足の時代に、農業を通じて我が国の食料増産に大きく貢献した」として、昭和天皇皇后両陛下が、激励のために1958年(昭和33年)に同工場に行幸され、パラチオン工場を視察されているが、この一事をみてもパラチオンの日本農業に果たした大きさが分かるといえる。
◆中毒・死亡事故多発で社会問題に
しかしパラチオンは温血動物に対する急性毒性が高いという欠点をもっており、指導が十分に行き届かないまま全国的に普及したために「農薬散布中の中毒・死亡事故が急増、その合計は33年のピーク時には実に1000人も達し、社会問題化」(遠藤武雄・元農水省植物防疫課・日植防顧問※2)してきた。
また、「ニカメイチュウの抵抗性問題が昭和35年頃香川・愛媛の両県から大きく出てきた」(木村重雄・元全購連農薬課※3)。このためパラチオン代替剤の登場が待たれ、いくつかの剤が開発されるが、低毒性でしかもパラチオンと同等あるいはそれ以上の効果を発揮するものはなかった。
◆安全な殺虫剤を短期間に開発
そうしたなか、住友化学の大阪製造所研究部でもニカメイチュウを対象とした低毒性有機リン酸殺虫剤の研究・開発が行われていたが1959年(昭和34年)に「二化めい虫(原文ママ)に特異的に有効である、スミチオンを発見するに到った」(鈴木信一・元住友化学大阪製造所研究部長代理、西沢吉彦・同農薬課※4)。そして1961年(昭和36年)12月に「スミチオン乳剤」として農薬登録される。
農薬の開発には一般的には10年近くは必要だといわれている。現在ほど農薬登録の条件がシビアではなかったとはいえ「約3年間という比較的短期間」で開発されたのは「研究グループの優秀さと、それを包含する社内空気のすぐれていることには眼を見はるものがある」と飯島鼎氏(当時全購連)は振り返っている(※3)
農薬登録を取得した翌年の1962年4月にスミチオンは上市される。だが、この当時はパラチオンの全盛期だったことや他の有機リン剤が多数商品化されていたために、スミチオンの性能は高く評価されていたが、なかなか普及に結びつかなかった。しかし住友化学は、1963年の植物防疫全国協議会幹部会開催を機に、大分工場に都道府県の病害虫防除指導機関関係者を招待し、スミチオンの説明会を実施し、国産開発技術力と考え方に理解と共鳴をえることができ、その後の普及に大きな力となった。
1962年にはスミチオン粉剤の登録を取得し、翌年からは殺菌剤(いもち、紋枯れ剤)との混合剤、ウンカ・ヨコバイ剤との混合剤、果樹用に適した水和剤、微量散布用粉剤、ドリフト軽減微粒剤などの登録を次々と取得して使用場面の底辺を大きく拡大していく。
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第1回「スミチオン剤50周年記念の森」植樹作業の様子(2011年10月千歳郊外の国有林で。第2回は今年7月に行われた)
◆水稲から果樹・園芸作物に拡大
そして米が完全に自給できるようになると良質米生産が奨励されだし、斑点米の原因となるカメムシ防除のウェイトが高まるが、スミチオンはこうした変化にも対応してニカメイチュウからカメムシにも対象を広げるだけではなく、松枯れの原因害虫である線虫を媒介するマツノマダラカミキリなどもターゲットにし、果樹や園芸作物などへ適用作物・害虫を拡大し、国内農業になくてはならない薬剤となっていく。
さらに国内だけではなく「世界的にも約百か国にわたる農業分野」で使われ、さらに「マラリア防止をはじめ、世界の人々の生活の周辺でも幅広く使われる」ようになる(スミチオン発売30周年記念パーティーで森英雄住友化学社長〈当時〉の挨拶から)。表は代表的な製品である「スミチオン乳剤」の適用作物・病害虫をまとめたものだが、水稲だけでなく、麦・大豆から果樹・園芸作物や樹木まで多くの作物の害虫に適用されていることが分かる。このほかにも粉剤や水和剤など多くの製品がある。
安全で安心で良質なコメ生産を可能にするという農薬としての効能・効果はもちろんだが、人に優しく環境への負荷も軽減するという21世紀の時代要請を先取りしたといえるスミチオンは、現在も現役の農薬として、全国の水田やほ場で多くの生産者に支持され、発売50周年を迎えた。
農薬登録制度が制定されてから今日まで数多くの優れた農薬が登録されているが、50年を超えてなお生産現場で支持され続けているものはほとんどないといえるだろう。このような優れた剤をしかも短期間に開発した研究陣に最大の敬意を表したい。
そしてスミチオンの役割はこれからもなくなることはなく、日本のそして世界の農業を支えていくに違いない。
※1:「日本史年表・地図」吉川弘館2012年4月1日発行
※2:「農林技術新報」1992年12月15日号「スミチオン発売30周年記念特集」より
※3:「時を超えて―スミチオン販売20周年記念」1981年10月住友化学(株)
※4:「新低毒性有機リン殺虫剤(1)スミチオン―その研究から開発まで」
※:5提供:NPO法人20世紀アーカイブ仙台