◆未開の原野を切り開き新しい故郷を築く
有塚利宣氏 (写真提供:(社)家の光協会) |
北海道農業界の重鎮であり、十勝地区農協組合長会会長を務める有塚利宣(ありづか・としのぶ)組合長のモットーは、「自主自立とパイオニア精神」。
北海道・十勝の本格的な開拓の歴史は、明治十六年の「晩成社」による帯広での開墾に始まる。静岡県出身の依田勉三(よだ・べんぞう)をリーダーとする二十七人の仲間は、自然の猛威との壮絶な闘いの末に、未開の原野を切り拓き、新しい故郷を築き上げたのだった。
有塚氏は、昭和6年、入植農家の4代目として、帯広市に生まれた。戦前から勝農(かちのう・十勝農学校)の愛称で親しまれ、多くの優れた農業者を輩出している帯広農業高校を卒業と同時に就農。
大規模畑作農家の後継者としてスタートした有塚氏が、本気で農協運動に関わる契機となった出来事がある。
三十代半ばのことだ。昭和41年、国の農業構造改善事業により、12戸の集落の仲間が集まって機械化利用組合を結成。そこで、トラクターなどの大型機械を導入した結果、余剰労力ができたので、組合で25ヘクタールの農地を借りて、規模拡大をすすめることになった。そこで、若い仲間たちは、道内の先進農家へ視察に出かけることになったのである。
2両連結の機関車が先導し、汽車は狩勝峠を上って行った。眼下には、日本新八景の一つに数えられる雄大な十勝平野が広がっている。
◆連綿と絶えることなく受け継がれる開拓魂
旅行者ならば、そうした風景にさぞかし感動することだろう。だが、その地に生きる12人の青年たちの暮らしといえば、景観の美しさに似合わぬもの。草屋根の掘っ立て小屋に住み、芋、カボチャ、キビを主食にする日々だった。
峠を越えた汽車は、石狩平野の水田を走り抜け、だんだんと札幌に近づいて行った。
彼らがそこで見たのは、米を主食にし、土台の堅固な柾葺き(まさぶき)屋根の家に住む農家の暮らしぶりだった。
「あの時、私たちは、みんなが同じ思いを抱いた。なんとしても、貧乏から抜け出そう。早くあのような家に住み、家族の笑顔を見ながら米の飯を食べられる生活を実現しよう。そのために、みんなで力を合わせようではないか。けっして負けまい。がんばろう」
この日、固く誓い合った12人の仲間たちは、40年の歳月を経た今、1人も欠けることなく、その多くが1億円近い生産高をあげる農業経営者となった。
依田勉三に連なる開拓魂は、確実に受け継がれたのである。
◆「十勝川西長いも」を本格的輸出ビジネスに
ところで、近年、JA帯広かわにしが注目されているのは、特産の長イモの輸出である。「攻めの農政」を掲げて、農産物の試験的な輸出から本格的なビジネスとしての輸出をめざす段階に至り、長イモはそのシンボル的存在になっている。
十勝管内の7JAで生産され、登録商標されている「十勝川西長いも」は、台湾、ベトナム、アメリカなどへ輸出されている。味と粘りのよさに定評のある十勝産の長イモは、海外でブームになっている薬膳料理の食材として人気があるという。
北海道では、最初に美唄と夕張に入り、炭鉱の経営者が、体力維持と健康増進のため、炭鉱夫に食べさせようとして作り始めたという長イモ。消費者のニーズに応えて、年間供給体制を図るのに必要なロットを確保するために、十勝管内の7JAが協同態勢を組んでいる。そこには、有塚氏の強いリーダーシップがあった。
しかし、ここに至るまでの農家の苦労と努力を忘れてはならないと、有塚氏は強調する。「安全・安心」が叫ばれる以前から、十勝では、ウイルス病対策などの種子管理や栽培技術の開発など、農家間の強い結束によって、生産管理を徹底してきたのだ。
さらに、販売面でも、JAの東京支店の6人の常駐職員が市場や取引先を回り、最新の情報を入手し、それをJAの事業に取り入れてきた。いち早く海外に進出したのも、商社などとのチャンネルがあったからだ。
常に時代の動きを敏感にとらえ、持ち前のパイオニア精神を発揮する有塚氏。いま目を向けているのは、次世代エネルギーとして期待されているガソリン代替燃料のバイオエタノールの生産である。帯広市の十勝圏振興機構理事長として、生産者の立場に立ち、積極果敢に挑戦している。
このような有塚組合長が、農協人としてめざすことは何か。
「おたがいに自立するとともに、体を温めあいながら協同して生きようと励ましあった若き日の仲間たちとの約束。それをけっして忘れることなく、協同の力で農業を振興し、地域経済を発展させる。そして、自主自立の北海道経済を実現することだ」
それがJAの使命であり、リーダーとしての使命でもあるという強い自負と責任感を抱いているのである。