◆アメリカ視察がきっかけで農業・農協問題を学ぶ
和田正美氏 (写真提供:(社)家の光協会) |
JAみっかびの柑橘選果場は、まるでハイテク技術を駆使した食品工場のようだった。
45条の選果ラインに備えたカラーグレーダーによって、ミカンの色、傷、形状を瞬時に判別し、光センサーによって糖度と酸度を計測。それらのデータは、生産者別の園地ごとに、すでに入力されている品種・樹齢などさまざまな情報に新たに加えられ、パソコン画面の園地地図に色分けされることによって、一目でわかるマッピングシステムへと連動している。
さらに、三ヶ日町内の20か所には、気象観測装置があるという。さすがは、「ミカちゃん」の愛称で、年間3万8000トンを出荷する有名ミカン産地のJAである。
組合長の和田正美氏は、やり手のビジネスマンといった感じの人だが、生粋の農業者。
昭和19年、ミカン農家の長男として生まれ、三ヶ日高校農業科を卒業後、助手として1年間母校に残ったあと就農した。
当時はミカンの暴落期だったので、副業としてホルスタインの肥育牛を5頭導入。
「あの頃のミカン経営は厳しかったが、肉牛は儲かった。年収が、サラリーマンの3倍くらいはあったと思う」
気がつけば、3年目には畜産農家になっていた。経営は順調で、昭和49年、30歳の和田氏は静岡県の農業経営士に認定され、日本農業賞の静岡県代表にも選ばれた。
この年、4人の仲間と15日間のアメリカ農業視察に。120頭の牛を飼い、県内では最多販売頭数を誇っていた和田氏だったが、アメリカ西海岸で、1万頭規模の牧場を見た時は、圧倒されて、言葉を失った。餌を与えるのに、自分の牧場ではバケツ、かの地では大型トラックなのである。
帰国後は、アメリカの真似はできないまでも、農協から総合資金を借りて250頭まで規模拡大をはかった。
このアメリカ視察がきっかけになり、和田氏と農協との縁が深まった。同行した三ケ日町農協の中川晋参事から、農業・農協に関するさまざまな問題について学んだのである。
◆夢のある農業個性的なJAづくりを
JAみっかびの戦後の歴史は、不良在庫や不良債権を抱え、貯払い停止にまで陥った絶望と苦難から始まった。
先輩の中川氏たちは、「みんなの組合、みんなで利用、みんなの利益」を合言葉に再建を決意し、組合員と役職員が一体となって努力した。そして、10年5か月後の昭和36年には、県農協大会で優良農協として表彰されるまでに発展した。
先輩たちは、青年組織、生産者組織、婦人組織の三者がスクラムを組めば、素晴らしい協同の力を発揮できるに違いないと考え、それを実践。また、農業中核青年の視野を広めるための柑橘先進地視察を制度化し、優秀な農業者への教育助成も行った。
このように、農協が組織と人づくりに力を注ぎ、発展していくなかで、若い和田氏は、農業と農協の将来を託された存在として、地域の人々の期待を集め、頭角を現していった。
三ケ日町農協青年連盟委員長や浜松地区農青連委員長を経て、農協理事を務め、県の農業経営士協会会長だった平成11年に組合長に就任。
「300頭の肥育牛部門と堆肥・園芸培土の製造販売部門を経営していたが、農業経営者としての経験を生かして、組合長をやれということだった。地域のためになることならと思い、喜んで引き受けた」
◆「新発想は未来を拓く」で業務を改革
和田組合長が、まずスローガンとして掲げたのは「夢のある農業を。三ヶ日の風を起こそう」。それは若い頃から自分自身がめざしてきたモットーでもあった。
また、何度も国内外の先進農業地帯を視察し、それが役に立った経験から、JAの助成制度を充実させ、組合員による他産地への視察を、積極的にすすめてきた。
「規模は小さくても、個性的なJAの事例は参考になる。他産地のいいところを見るのもよし、自分たちが恵まれていると知ることも大切だ」
リンゴ産地の青森県JA相馬村との交流は特に盛んで、組合員同士が訪問しあっている。毎年、農協祭には、先方の組合長や常勤役員、販売担当者が来て、「飛馬リンゴ」を販売している。
和田氏の好きな言葉に「新発想は未来を拓く」がある。JAみっかびでは、「発想提案」として、各職員が業務に関する提案を、年に二つずつ出すことになっている。優秀な提案には賞金が与えられるが、これが年間500くらいの業務改善につながっている。
「発想力の母は問題意識。問題意識を高めるには目標意識を持つことだ。何かを達成しようという目標意識があれば、否応なしに工夫したり、自分の才覚を働かせなければならない。常にそうした状態に、自分自身を追い込んでいくことだ」
農協人として、先人たちの志を継ぐ和田組合長の、これが次の世代に贈る言葉である。