◆農青連を舞台に活躍
水津俊男氏 (写真提供:(社)家の光協会) |
江戸時代の古地図で歩けるという萩の街には、高い煙突がない。重工業の誘致をせず、歴史・文化的遺産を守ってきたのである。観光地と農業地帯の2JAが合併して、JAあぶらんど萩が誕生したのは平成18年。
「米が5、野菜・果物・花卉が4、畜産が1の割合で、日本海の魚介類もあるので、ここは独立国になってもやっていける」と笑う組合長の水津俊男(すいず・としお)氏は、昭和25年、稲作農家の長男として生まれた。
鯉渕学園へ進学した直後、父が病に倒れたため帰郷。後継者として農業に従事することになった。
それからは、農業と農青連活動が生きがいに。米価がどんどん上がっていた頃で、よく夜行列車に乗って、東京の米価大会に駆けつけたという。
昭和57年、31歳の時に、農青連の推薦を受けて阿北農協理事になった。組合長候補の理事を破っての当選だった。
その後、40歳で組合長に就任してから2度の合併を経験。最初の合併時に、常務・専務を務めたことがあるものの、これまでの16年間、地元に帰れば、ずっと「組合長さん」と呼ばれてきた。
まだ56歳で、一般的には若手の組合長ということになるが、JAリーダーとしてのキャリアは長いのである。
組合長になりたての頃は、米価が下落し、優秀な専業農家が農業から離れ、農協職員は次々に職場を去っていった。
若い組合長の水津氏は、日々悩みながらも、なんとかして、やりがいがあって魅力のある農協にしようと、役職員の先頭に立って旗振り役を務めていた。
◆あぶらんど米」を売り込む
平成8年の合併でJA山口阿武が発足し、営農担当の常務になった水津氏は、合併のメリットを生かすため、2基のカントリー建設に携わった。そして、籾貯蔵した米を今ずり米として販売する事業に着手。
県内のJAに先駆け、職員といっしょに九州の長崎から広島あたりまで、米のセールスに出向いた。地域ブランド米の独自販売ルートを開拓するための行脚だった。
しばしば経済連の担当者とは衝突もしたし、周囲には貸し倒れを心配する声も強かった。だが、それも杞憂に終わり、貸し倒れは一件も発生しなかった。
当時の苦労がようやく報われ、今は、JAが集荷した米の半分をJAの独自ルートで販売。集落営農組織ごとに特色のある米を作り、それをJAが責任をもって有利販売する流れが確立している。
新潟の魚沼産の米より高い米もあり、「あぶらんど」の米でなければ、というファンも増えてきた。
基幹作物の米をきちんと生産すれば、他の農畜産物の有利販売につながるというのが、水津氏の持論だ。
全体に、米の売上げが減少しているなかで、JAの米を扱っている米屋に頼み、メロンやモモなど贈答用果物のパンフレットを、「あぶらんど米」のお得意さんに配ってもらって販売する方法もとり入れている。
◆一生懸命作れば伝わる
水津組合長が、いま力を入れているのは、地産地消をすすめて、消費者に農業への理解を深めてもらうことと、観光と農業とのマッチングを図ることである。
萩市観光協会理事も兼ねる水津氏は、地元の農産物を売り込むセールスマンを自認。まずは、JAが半分出資していた地元市場の萩青果を子会社化した。
この市場に、ホテルや旅館が求める地元の農産物をそろえ、そのおいしい食材を観光客に食べてもらって、「あぶらんど」ブランドをPRしようというのだ。
萩に来なければ食べられない農産物の魅力を存分に発揮して、観光客を増やすという戦略である。
水津氏は、農青連で活躍していた頃から、常にチャレンジ精神が旺盛だった。だからといって、あまり奇をてらうことは好まない。
当時からの変わらぬモットーは、「清く、正しく、美しく」。この言葉通り、常に何事に対しても、正攻法でぶつかってきた。
「消費者の心をとらえるには、どこにも負けない良質の農産物を作ることに尽きる。絶対にごまかしてはならない。天候の悪い年であっても、一生懸命作った物であれば、消費者は我慢してくれる」
消費者に信頼されるために、安全で、安心でおいしい、さらに美しいものを求め、農家組合員とJAが一体となって、正攻法で前進する。それが農業振興の原点であると、水津氏は力説する。
もちろん、その「正攻法」とは、水津組合長がリーダーシップをとるJAあぶらんど萩の、すべての事業活動にも当てはまるスタンスなのである。