◆組合員が経営者である以上全員が経営者でないと農協もつぶれる
開田 和氏 (写真提供:(社)家の光協会) |
日本一低い分水嶺のあるJA丹波ひかみ管内は、京阪神へ行くにも日本海へ出るにも、車で約一時間。兵庫県の“へそ”に当たる地域である。
水資源に恵まれた米の産地だが、但馬系統の繁殖牛をはじめ、丹波栗、大納言小豆、黒枝豆、山の芋などの特産物も豊富だ。
組合長の開田和(かいだ・かず)氏は、昭和8年の生まれ。農協界に入ったのは42歳と、遅いスタートだった。
旧青垣農協組合長だった父が退任してまもなく、周囲から勧められて、農協の非常勤理事となり、4年後に専務理事になった。
それまでは民間の建設会社を経営していたので、白紙の状態で農協運営にかかわることになったのである。若い開田氏は、一回りも二回りも年上の部長や理事たちから、さっそく「専務、どんな仕事をされるんか」とプレッシャーをかけられた。
そこで、「よし、おれも一から勉強せなあかん」と奮起し、毎日、帰宅の途中で地元の支店へ寄り、その日の伝票をチェックしながら、事業内容の把握に努めた。
しかし、半年間、それを続けてみたものの、「伝票めくるのが専務の仕事ではないな」と思い直したという。
会社の社長だった頃は、絶えず顧客を訪ねて御用聞きに回っていたのに、農協の役員になってからは、組合員とじっくり話したこともないと気づいたのである。
農協は、民間企業のように、常に新規の客を開拓しなくてもよい。自ら出資をして、自ら農協を利用しようとする人たちが集まってできた組織だ。組合員が経営者であるし、全員が経営者になってくれなくては潰れてしまう。だから、役職員が出向いて、組合員の声をよく聞くことが、農協本来のあるべき姿ではないか。
そう考えた開田氏は、毎日外へ出て、総代の家を訪ね歩くことにした。
「常勤の専務が来てくれたのは初めてだ」
と、どこへ行っても、組合員は喜んでくれた。道すがら、開田氏は畑で仕事をしている姿を見ると、必ず声をかけるのだった。
◆「出向く体制」の充実がJA経営の生命線
夢中で地域を歩き回ったその頃の経験が、後に、JAのリーダーとして、組合員の理解や協力を求める際に、大きな力となって生きたのである。
その後、平成2年の合併で、JA丹波ひかみが誕生。同JAの理事や専務を経て、組合長に就任したのは平成11年。
合併に伴う店舗の統廃合によって、26店舗が10店舗に減少。「出向く体制」の充実強化が、JA経営の生命線になった。
現在、JA丹波ひかみでは、担当者が組合員宅を定期的に訪ねる年金宅配制度を設け、信用、共済、営農、生活などの専任渉外担当のほかに、管理職クラスのフリー渉外の活動にも力を入れている。
組合員を訪ねて、あらゆる相談を受け入れること。それが、JAならではの強みを発揮できる最良の方法であるというのが、企業人から農協人となった開田氏の一貫した考え方だ。
JAの役職員にとって、一番大事なのは、組合員の意見に耳を傾けることだというのが、農協人としてのポリシーなのである。
開田氏が若い頃から好きな人生訓は、「われ以外皆わが師」。
子供、女性、高齢者など、どんな人の話でも、自分の師匠が言ったこととして受け止め、学べ、という意味である。
組合長としては、職員に向かって、よくこう語る。
「一日に働く時間のうち、50%は人の話を聞いて、30%はそれを人に伝える。15%は書類やデータに目を通して、5%はメモをとろう」。
◆組合長として組合員に何ができるのか…
専務だった頃、先輩の上野喜昭組合長からは、次のように教えられた。
「理事とだけ話をして、理事会をまとめるだけなら簡単だ。なんぼ理事会で決めたって、組合員が動いてくれなければ意味がない。組合員に受け入れられなければ、JAの事業は成り立たへんよ」
組合長になってみると、この言の意味は重く、心から共感できた。
そして、いま、自分自身に対しては、こう自戒する。
「JA丹波ひかみの組合長でいるために仕事をするのではない。組合長として、組合員のために、何ができるのかを、常に考えていなければならない」。
思い返せば、32年前、民間企業から、農協に移ってきた時は、「農協というところは、お化けみたいなものだ」と驚いたものだ。
しかし、今や、JA兵庫中央会長も兼ねる開田氏は、農協組合長だった父のDNAをしっかりと受け継ぐ農協人として、JAグループを力強く牽引しているのである。