◆日ごろの実践活動を通じて組織づくりの手法を学ぶ
宮本幸男氏 (写真提供:(社)家の光協会) |
琵琶湖に次ぐ広さの霞ヶ浦湖岸にあるJA土浦管内は、日本一のレンコン産地。筑波研究学園都市にも隣接しており、農村と都市が混在する地域である。
理事長の宮本幸男氏は、昭和20年生まれで、穏やかな人柄を感じさせる人。若い頃は、友人たちと同人誌を作っていた文学青年で、宮沢賢治や石川啄木に憧れて、盛岡の岩手大学に進学した。専攻は農学だったが、学生時代は、もっぱら山登りに熱中していたため、自称「山岳部」出身。
卒業後の就職に際しては、農家の長男だから地元に帰れ、という父の厳命により、茨城県経済連に入会した。
経済連での25年間は、ほとんど園芸畑だった。20代後半から、スイカ産地などで共販体制をつくるために、県内の村々を巡回。集落座談会で、夜遅くまで農家の人たちと語り合ったこと、野菜集荷場で夜中まで働いたこと、神田の青果市場での6年間など、懐かしい思い出はたくさんある。
当時は農協共販の全盛期で、販売高が、年に20パーセントも伸びていた。山岳部で鍛え、体力には自信のあった宮本氏は、現場に出て、歩き回っていた。
「お前は、年寄りとじっくり話し込んで、説得するのがうまい」と仲間たちからは、よく言われた。実際、農家の人たちと話をする時間は楽しかった。
日常の実践活動を通して、地域のグループをどうまとめるか、集落のリーダーの力をどう引き出すか、組織づくりの手法を学んだ。その頃の体験が、今に生きているという。
◆生産者と消費者の交流は日常の経済活動の積み上げ
平成6年に経済連を退職し、合併によって誕生したばかりのJA土浦の専務に就任。
しかし、新しい職場の仲間たちが、宮本氏に注いだ視線は、「連合会にいた人間が、ほんとうにJAの現場のことがわかるのか」といったもので、必ずしも温かくはなかった。
宮本氏も、長年、組織で働いてきた人である。新入りの役員が偉そうに命令するだけでは、職員は気持ちよく働く気になれないだろうという思いはあった。
そこで、率先して、トイレの掃除をすることから始めた。「雑巾がけから始める」とは、比喩としてよく使われるが、宮本氏は、実際にそれを行ったのである。
さらに、共済推進で、職員が2億やれば、宮本氏は3億の実績を上げた。貯金も職員に負けないだけ集め、債権回収に当たっては、率先して組合員の家に足を運んだ。仕事を命ずる前に、自分でやってみせて、それから指示をする。それに徹した。
やがて、職員との間の溝は埋まり、理解と信頼の感情が生まれた。そして、4年後の平成10年に、理事長に就任することになったのである。
いま、JA土浦では、リーダーの宮本氏のもと、「あなたのそばのベストパートナー」を合言葉に、さまざまな改革に取り組んでいる。
筑波大学の研究者を中心に、生産者、県庁やJAの職員などでプロジェクトチームをつくり、平成16年には「JAアグリパワー土浦」を設立。JA出資の農業法人として、不耕作農地の解消に努めている。
また、地産地消にも力を入れ、管内4か所でJAの農産物直売ショップを開設。その延長で、東京都内と埼玉県内のスーパー12店舗でも、インショップ事業を展開している。
「生産者と消費者の交流は、イベントだけではなく、日常的な経済活動として積み上げていくことが大切だ」
◆農業生産はJA事業の第一義
農業生産をJA事業の第一義と考える宮本氏が、特に重視しているのが、営農渉外事業の強化である。
民間のやり方を参考にできる信用や共済事業とは異なり、営農事業は、JA独自に、地域に合ったノウハウを自分たちでつくり上げなくてはならない。担当者の資質と能力が問われる仕事であり、地域社会のなかで、もっともJAらしさを発揮できる分野でもある。
「今は、農業の発展期ではなく、衰退期だ。昔のやり方だけでは通用しない。新しい生産・販売のリーダーとなるべき担当者の責任は重い」
と話す宮本氏。そして、こう続ける。
「組合員から肥料代が高いと苦情を言われれば、心苦しいが、組合員の皆さんに言いたい。明日の相場が欲しければ、業者とつき合ったほうがいい。もし、1年の相場が欲しければ、JAとつきあってほしい」
そのためには、JAがJAであることが肝心。信頼関係によって成り立つJAという組織の基本は、人、人、人に尽きる。
「組合員とJA役職員との理想的な関係とは、話せばわかりあえるという精神を共有することだと思う」
農協人となってから抱き続けてきた、宮本氏の信念である。