◆他産業への就労経験が自己を問い直すきっかけに
虻川景一氏 写真提供:(社)家の光協会 |
青森県との県境に位置するJAあきた北は大館市全域をエリアとしている。
昔から、鉱山、林業、農業が三大地場産業といわれてきたが、いまや、花岡鉱山は閉山、天然秋田杉は伐採され、輸入木材の増加で衰退の運命をたどっている。
だが、農業は元気だ。米の『あきたこまち』と比内地鶏の産地として知られるが、このほか、山の芋、とんぶりの生産量が日本一で、近年、アスパラガス、キュウリ、ネギ、花卉などの生産量も増えている。
組合長の虻川景一(あぶかわ・けいいち)氏は昭和12年に、稲作農家の長男として生まれた。「蛙の子は蛙」とばかり、迷わず鷹巣農林高校へ進んで、卒業と同時に就農。
当時は、米作日本一をめざし、農家は反収を競っていた。だが、将来は、米だけでは食えなくなると考えた若い虻川氏は、年間通して働ける養鶏を導入。地域青年会の会長として、仲間たちと、地域の将来についての夢を語り合っていた。
ところが、農協の理事から、購買係の担当職員が不祥事を起こして辞めてしまったので、その後釜として、どうしても来て欲しいと懇願され、農協に就職したという。
女子職員と2人だけで購買事業を担当。農繁期になると、目の回るような忙しさだった。
そんな生活を3年間続けたが、かねがね外の世界へ出て、人生修行をしてみたいと考えていた虻川氏は農協を退職。
半年間、土木工事をした後、北海道で山師の仕事をしている父の友人を頼って、出稼ぎに。アイヌの集落で暮らしながら、山の仕事を手伝った。
「一度は、生まれた村を離れてみたいという欲求があった。あの1年間は、短かったが濃密で、自分の人生について考えるいい機会になった」
それから、本腰を入れて農業で生きようと決心した虻川氏は、バタリー飼育による養鶏をスタートさせた。しかし、また農協から、戻ってきて欲しいとの強い要望があり、断りきれず、再び農協職員となった。
◆営農の活性化なくして農協なし
31歳で支所長に抜擢。34歳の時に、地域の畜産振興をはかるためには、生産から販売まで一貫して担当する専門部署が必要ではないかと組合長に進言すると、すぐに返ってきた答えは、「それなら、お前が課長をやれ」。
秋田県内の農協では、初めての部署だった。
尊敬する組合長とは、強い絆で結ばれていた。行政に働きかけて、養豚団地の造成や食肉処理工場の建設にと飛び回った。充実した毎日だった。
ところが、37歳の時に、米販売をめぐって、農協で不祥事が発生。組合長が責任をとって辞任した。虻川氏は、不祥事に関わってはいなかったが、組合長と行動を共にし、農協を去ったのである。
翌年の昭和50年には、大館市の市議会選挙に出馬して当選。61年まで議員として、地域農業振興のために活躍した。
農協の監事や理事を経て、組合長に就任したのは平成12年。
「営農の活性化なくして農協なし」は、虻川氏の変わらぬ信念である。高齢化がすすむ地域のなかで、やる気のある若い農業経営者や、営農指導員を常に励まし続けている。
とかく、農協のリーダーには、地域をまとめる調整能力が重視されてきたが、もはやそんな時代ではない。改革のために、先頭に立たなければならない、と虻川氏は強調する。
組合長に就任すると、「業務に対する心構え」として、「あきらめるな」「にげるな」「ごまかすな」の3つの言葉を書き入れたワッペンを、全職員の机の上に貼らせた。
農協運動でいちばん大事なのは、組合員との結びつきを強化すること。共済推進で最初は断られても、2回、3回と足を運ぶことによって、組合員は心を開いてくれる。
自覚と責任をもって、組合員を訪ね、コミュニケーションを深めることのできる職員になってほしいというのが、組合長としての虻川氏の強い願いである。
それには、職員の意識改革が急務であるし、JAとしては、職員教育や組合員教育の活動を充実させなければならない。
◆座右の銘は「百術は一誠にしかず」
教育に始まり、教育に終わるといわれる協同組合運動である。今後は、試行錯誤しながらも、教育活動に力を入れたいと考えている。
ところで、農協人として、虻川氏が大切にしている座右の銘は「百術は一誠にしかず」。
百の手練手管よりも、大事なのは一つの誠実さ。組合員との関係は、このことに尽きるのではないかと言う。
昨年3月、大館市で開かれた農業協同組合功労章受章を祝う会で、受章者の虻川組合長は、このようなあいさつを述べた。
「心血を注いで、農協運動を築いてきた諸先輩の功績を汚すことのないように、誠実に、を原点として、努力してまいる所存です」