◆農協人としての出発点は農青連活動から
萬代宣雄氏 写真提供:(社)家の光協会 |
「組合員が主人公」と訴える萬代宣雄(ばんだい・のぶお)組合長には、3つの顔がある。事業家、政治家、そして農協人としての顔だ。
29歳のときに、自動車の整備工場や生コンなど6社を興し、その後、保育園や特養などを運営する社会福祉法人の理事長に。また、32歳から28年間、出雲市議会議員として活動し、議長や中国市議会議長会会長を歴任。さらに、農協の理事を15年間務めたあと、組合長に就任したのである。
昭和17年に、農家の長男として生まれた萬代氏は、16歳で一家の大黒柱となり、米と養豚の複合経営に取り組むことになった。病弱だった父は農作業に就けず、働き者の祖父が急逝したからである。
それから、地域の青年団、4Hクラブ、農青連で熱心に活動。毎朝、5時に起床して、新聞、雑誌、書籍を読みあさり、経済、農政、時事問題などについて勉強した。
農業改良普及員からは新しい農業技術を学び、仲間たちとは、明日の農村社会建設に向けての熱い議論を戦わす日々を過していた。
萬代氏の農協人としての出発点は、農青連活動にあった。出雲市農青連委員長から島根県や中四国ブロックの委員長、全青協委員となって活躍。
「農青連活動をとおしての仲間の絆は強く、われらが農協という意識が強かった」
萬代氏は、専業農家の仲間とともに、商系に頼らず、あくまで農協利用の姿勢を貫いたが、改善してほしいことは、農協に厳しく要求した。その一方で、自分たちで開拓した販売先を農協に紹介したりもした。
農協の総代に多くの農青連の仲間を送り込み、農協の若返り運動を展開。当時、島根県信連専務理事だった岸明正氏を組合長に担ぎ出した。それが、今日、農青連出身者がJAの常務理事を務める契機となった。
◆農青連の仲間の支援で事業経営にも乗り出す
事業経営に乗りだしたのも、市議会議員になったのも、農青連の仲間たちからの支援があったからだ。
「周囲から頼まれて会社経営に携わってきた。それが、地域のなかでの自分の役割だという意識を強く持っていた」
だが、苦労もあった。生コン製造会社をつくった時は、新規参入に反対する既存の会社からさんざん嫌がらせを受けた。
農家の兼業化がすすむなかで、カギッ子対策が大きな社会問題になっていた頃、萬代氏は、無認可保育の子供園を開園した。これは、自らやらなければと決心した事業だった。
しかし、補助金のつかない福祉事業経営の厳しさは想像以上で、累積1億7000万の赤字になった。それでも、社会的使命感から、自分の給料を投げ出し、グループ会社の支援でなんとか経営を維持していた。従業員や協力者には、「社会貢献のために頑張ろう」と、励ましていた。
そんな状態のなかで開いた保護者との話し合いの席で、園長の萬代氏に対し、一人の父親がこう発言した。
「あなたは、金儲けのために、子供園を経営している」
日頃、経営の実情を知って、純粋な思いから、ボランティアで手伝ってくれる親たちもおり、自分のしている行為は、周りから感謝されていると自負していた。だが、全く別の見方をする人もいたのだ。
熱血漢の萬代氏は、この言葉にショックを受けた。あの時ほど失望し、悔しい思いをしたことはなかったと述懐する。
◆JAが生き残るためには組合員に喜ばれるJAへ
萬代氏は、平成15年にJAいずもの組合長に就任。その時、もっとも強く感じたのは、組合員にとって、JAの存在が選択肢の一つでしかないという現実だった。萬代氏が、農青連時代に経験した「われらが農協」の意識とは乖離していた。
役職員の危機感や緊張感も乏しいと、萬代氏の目には映った。部門間の連携不足と総合事業への意識が希薄だった。JAの職場はぬるま湯的だ。民間企業経営の厳しさを知る萬代氏は、役職員の意識改革が急務であると考えた。そして、職員に訴えた。
「JAが生き残るためには、組合員に喜ばれるJAにならなければならない」。
農青連活動によって、「協同組合活動そのものが教育活動である」と教えられてきた萬代氏は、さっそく、協同組合の原点に戻るための役職員プロジェクトチームを結成した。
協同組合運動の本質について学ぶことから始め、協同組合理念に基づく事業展開・組織運営についての議論を重ねた。
それを『私たちが創るJAいずも』という冊子にまとめた。協同組合の歴史や理念をわかりやすく説いた画期的な内容である。そして、座談会や組合員大会で、それを周知・徹底した。
「組合員が主人公」――これが、萬代組合長のもっとも伝えたいメッセージだった。
(次回に続く)
【著者】(文) 山崎 誠