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JAリーダーの肖像 ―協同の力を信じて

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現場に駆けつけ組合員と対話 求心力を高めるのがリーダーの役割

JA栗っこ(宮城県)代表理事組合長 菅原章夫氏

◆青年部時代の情熱そのまま 菅原章夫氏写真提供:(社)家の光協会  岩手県と秋...

◆青年部時代の情熱そのまま

菅原章夫氏 写真提供:(社)家の光協会
菅原章夫氏
写真提供:(社)家の光協会

 岩手県と秋田県に接し、宮城県内のJAでは、もっとも広い面積を有するJA栗っこ。栗駒山がシンボルの純農村地帯である。
 かつては米生産量が100万俵あったが、35パーセントの減反で、現在は65万俵。
 生産履歴の記帳率100%は当然のこと、耕畜連携の循環型農業で「食味勝負」に挑んでいる米産地だが、現在は、畜産と園芸にも力を注いでいる。営農指導員と生活指導員は合わせて、69人。合併に伴う経済事業部門の一部子会社化によって、職員数を700人から520人に減らしたが、営農指導員は減らさないというのがJAの方針だ。
 リーダーの菅原章夫(すがわら・あきお)組合長は、青年部で活躍した若き日の情熱を、そのまま持続している農協人である。
 農家の長男で、昭和18年の生まれ。農業基本法が制定された36年に栗原農業高校を卒業し、就農。当時の農村には活気があり、米プラスアルファ農業の全盛期だった。菅原氏は、宮城県下で第1号の親子契約農家となり、30万円の農業後継者資金を借りて、養豚の多頭飼育を始めた。
 一時は500頭まで増やし、県の畜産共進会では、農林大臣賞を2回受賞。その他の共進会でも、何度もチャンピオンに輝いた。
 28歳で若柳町の農協の青年部長に。30代後半の青年部長が多いなか、県内では最年少の部長だった。
 米価運動がもっとも激しかった時代。米の出庫阻止、米価大会会場での壇上占拠、上京してのデモや農林省分室での座り込みなど、米どころの“青年行動隊”として大活躍。
 「農家の生活防衛のために、体を張っているんだという気持ちだった。本気になって農業で生きようと思っていたから、ああいう行動に出たと思う。それに、あの頃は、農協に強い求心力があった」
 組合長から、「頼むからやめてけろ」と懇願されたのも、今は懐かしい思い出だ。
 何事に対しても、真正面から立ち向かうスタンスは、その頃身につけた。

◆男女共同参画に努力

 菅原氏がJA栗っこの組合長に就任したのは平成10年。近年は、男女共同参画の一環として、女性の正組合員化や総代、理事への進出を積極的にすすめている。
 現在、総代520人のうち、女性は39人、女性理事は1人。いずれも、地域での競争に勝ち抜いてきた人たちで、いわゆる「女性枠」で選ばれたのではない。
 「女性枠を設けるのは、男女平等に反する」というのが、菅原組合長の持論だ。
 総代会でいちばん先に発言するのは女性総代だという。実力で選ばれてきた女性たちの発言力は、年々強まっている。JAを活性化するためには望ましいと、菅原氏は言う。
 しかし、まだ、男性側の抵抗感は大きい。ある集落で、「なんで、俺たちが辞めて、おなごが出てくるんだ」という意見が出たと聞いた時には、すぐに駆けつけて、じっくりと説得に当たった。
 「私自身、初めて理事になったのは、まだ青年部にいた頃で、熾烈な選挙戦をした経験があるから、女性総代の気持ちはよくわかる」
 組織基盤となる人的結集力において、女性部と年金友の会は双璧だが、JAの経営面への女性参画はまだ始まったばかり。大いに期待したいと、エールを送る。
 若柳町農協理事を経て、初めて組合長になったのは49歳の時。順風満帆のように見えるが、嵐の中での船出だった。
 組合長就任後にバブルが崩壊し、県信連は経営破綻。それまで農協を支えてきた米と信用事業頼みの経営では立ち行かなくなった。

誠心誠意がモットー

 平成8年には、8JAでの合併がまとまる直前に、地元JAの反対派から「合併無効」の訴訟を起こされ、苦境に立たされた。2か月間、眠れぬ夜が続いた。だが、菅原組合長を支持する組合員たちの署名運動によって、危機を脱し、裁判に勝つことができた。
 「あの時ほど、組合員のみなさんに支えられて、今の自分があるのだと思ったことはない」
 と、しみじみ話す。
 合併後の難関は、支店の統廃合だった。合併を決めた以上、避けて通れない問題だ。しかし、支店といっても、元来、自分たちの生まれた村の農協である。誰にとっても、愛着と思い出がある。
 そこで、「ふれあい店」として、施設だけは残すことにした。
 広域JAのトップである菅原氏には、ほとんど休日がない。土曜、日曜は必ず、何かの行事予定が組まれている。
 いつ、どんな時も、誠心誠意、一生懸命やるべきことをやる、というのがモットーだ。だから、何か問題が起これば、すぐに現場へ駆けつける。そうすれば、すぐ解決できることが多いという。
 それは、青年部長時代から組合長となった今日に至るまで続けてきた、リーダーとしての菅原氏の変わらぬ生き方である。

【著者】(文) 山崎 誠

(2008.03.14)