◆農協倒産から新農協づくりへ
伊藤喜男氏 写真提供:(社)家の光協会 |
太平洋に面した長い海岸線を有する高知県。県内8JA構想のなかで、唯一、JAコスモスだけが、海につながっていない。愛媛県に接する典型的な中山間地に位置するJAなのである。
伝統作物のお茶をはじめ、トマト、ニラ、ピーマンなどの生産が盛んだが、近年、順調に伸びているのが高糖度のトマトである。光センサーを備えた年間稼動の選果場のそばに、レンタルハウスを建設。標高1000mの土地でも栽培している。
終始笑みを絶やさない伊藤喜男(いとう・よしお)組合長は、昭和9年の生まれ。農家の一人っ子だったため、農業後継者となり、地域青年団のリーダーとして活躍した。
無着成恭の『山びこ学校』に触発された青年学級の若い教師の指導によって、仲間とともに生活文集を発行したり、高冷地トマトの草分けとして地元の新聞に紹介されたこともある青年時代だった。
そして、高知県連合青年団長だった昭和34年に、地元の農協で青年部を結成することになり、初代の部長を務めた。
昭和20年代後半に一度潰れたことがある農協では、信用・共済事業が中心で、販売・購買事業は行っていなかった。
当時、伊藤氏は、若い仲間とともに園芸組合を組織し、仲間の作ったトマトを、自分のトラックで出荷していた。
「農家は生産に専念して、販売は農協に担当してもらいたい。そのためには、まず集落座談会を開いて、みんなで話し合おう」
青年部長の伊藤氏はそう提案し、最初の座談会を開いた。
ところが、そこに突如飛び込んできたのが、「農協の戸が閉まったままだ。開かないぞ」との情報。経営不振による2度目の農協倒産だった。
リーダー的な立場の一人として、責任を感じた伊藤氏は、村役場の課長と公民館長の三人で集落を回り、農協再建を訴えた。しかし、
「2回も潰れた農協を再建するのはいやだ」
という組合員の意見が大勢を占めたため、いったん行政命令によって農協を解散し、新しい農協組織をつくることになった。
◆蚤の皮を剥ぐように貯めたお金が封鎖され
前途多難のスタートだった。各集落から、新農協をつくるための設立発起人を選出してもらい、伊藤氏がその代表になって清算事務を担当。さらに、その2か月後の昭和37年2月には、新しい小川農協の専務理事に選ばれた。まだ、27歳の若さである。
設立までの間、集落座談会で徹底的に話し合った。そこは農協への不信・不満が噴出する場だった。伊藤氏は、貯金封鎖を経験した組合員の悲痛な怒りの声にじっと耳を傾けた。
「爪の火を灯すようにして、という言葉があるが、蚤の皮を剥ぐようにして貯めたお金を農協に預けた」
「川へ石を投げ込んだら音がするが、農協に預けた金は、音もしなかった」
だが、涙ぐましい決意表明もあった。
「30年間、営林署に勤め、その退職金を全部農協に預け、それが全部もらえなくなった。しかし、農協は必要だと思う。自分は新しい農協に参加したい」
結局、農協に参加したのは304人だった。1人3000円の出資金と伊藤氏の貯金を合わせて130万円の運営資金で業務を開始。地域の仲間とともに農協事業を一歩一歩進めていった。
その後、合併した後の吾北村農協組合長やJA高知中央会長などを歴任して、JAコスモスの組合長に就任したのは平成8年。
◆JAの「あるべき論」から「ありたい姿」への脱却
いま、JAコスモスでは、「ありたい姿実現のためのJA改革」を実践している。
「『ありたい姿』という言葉は、JA改革についての内部検討のなかで、職員から出てきた。いい表現だと思う。農協の事業とは、組合員がみんなで夢を描いて取り組むもの。JAの『あるべき論』に縛られて行うものではない」
JAコスモスでは、支所の統廃合に際し、JAが一方的に計画を提案する方法をとらなかった。
8つの支所ごとに、運営委員や各組織の代表者で「『ありたい姿』実現のための検討委員会」をつくって、JAバンクのサービスなどについての「ありたい姿」をみんなで議論し、その結果を組合長に具申。それを、役員も入って1年がかりで検討し、結論を出したのである。
「計画ができても、そこに魂が入らなければ意味がない。『ありたい論』には天井がないと、私はよく言う。みんなで話し合い、知恵を出し合えば、よりよい方向に広がっていく」
伊藤氏の農協人としての原風景は、地域の人々とともに新しい農協を築き上げた、46年前の集落座談会にあるのかもしれない。
「協同の力で進んでいけば、将来に悲観することもなければ、絶望することもない。いつも発展的に考えていくこと。それが、私たちの『ありたい論』です」 と、笑顔で話す伊藤組合長である。