◆米国の綿生産者の強み
農業をめぐる国際分業の分析を通じて現代のグローバリゼーションのもつ基本的性格をえぐりだそうという本書『あなたのTシャツはどこから来たのか?』(雨宮寛・今井章子訳、東洋経済新報社、2007年刊)の著者は、米国ジョージタウン大学ビジネススクールの女性教授ピエトラ・リボリです。原題を直訳すると、『グローバル経済のなかでのTシャツの旅』となります。全米出版業者協会より2005年の最優秀学術書(金融・経済部門)に選ばれ、すでに11カ国語に翻訳されているとのことです。
2004年に、米国の綿についての輸出補助金がブラジルの提訴によるWTO紛争処理パネルで農業協定違反だとされたのは記憶に新しいところですが、本書は、「米国の生産者が綿という単純な商品を、自国よりはるかに貧しい国々へ輸出できるのはなぜか、私の中国製のTシャツはなぜテキサスで生まれたのか」から説き起こします。
すなわち著者の疑問の出発点は、世界市場において産業の優位性は常に一時的であり、米国では世界最高水準の労働コストが原因で衣料、鉄鋼、造船など多くの国内産業が崩壊したり国外へ追いやられたりしてきたのに、米国綿はなぜか生産高・輸出高・農場規模・単収のいずれでも200年以上にわたって世界制覇を維持していることです。
この疑問についての著者の回答は、米国の綿生産者の比較優位性の秘訣が政府の綿補助金制度だけでなく、何よりも綿の生産販売にともなう「競争リスクを緩和するための公共政策」の200年以上にわたる発達にあるということです。すなわち、19世紀は奴隷制度、そして奴隷制度廃止後は小作農民を土地に縛り付けたシェアクロッピング(分益小作制)、20世紀になるとカンパニータウン方式での農業労働者抱え込み、さらにメキシコ人労働者の導入が、綿農園主をして「労働市場の脅威」、つまり低賃金労働力の確保難を回避させたことです。そして米国綿の競争力を維持する「だめ押し」が巨額の補助金だったというのです。綿生産者が受け取る面積当たり補助金は小麦やトウモロコシ・大豆の5〜10倍になり、米国の綿作人口2.5万が受け取る補助金総額40億ドルは、西アフリカの世界最貧の綿生産国数カ国のGNPを上回るほどのものです。
著者リボリの真骨頂は、しかし、この補助金額の大きさを批判するにとどまらず、(1)テキサスの綿農園主たちが政治的影響力を駆使する力を養ってきたこと、(2)1930年代前半のニューディール計画の農業調整法は初めて国による農産物価格保証を導入したが、その代償としての減反で南部の小作農民が土地を追われることになったこと、さらに(3)綿農園主の経営努力が、トラクター搭載型綿摘取機の積極的導入から、協同組合を組織しての綿共販、繰綿ビジネスや綿実油搾油工場への出資などに及んできたことに注目していることです。リボリの指摘は、米国の自由貿易主義にとっての国内農業の弱い環は穀物や酪農であるよりも、実は綿であったこと、そして米国綿農業の経験はグローバリズム下のわが国稲作農業の今後にとっても示唆に富むことを教えてくれていると考えられます。
◆「メイド・イン・チャイナ」
さてここで登場するのが中国です。現在、中国は米国綿の最大の買い手であり、さらには世界の綿生産の3分の1近くを消費しています。そして、伸び続けてきた米国綿の対中国輸出の陰には、「ほぼ一貫して拡大し続けている連鎖がある。中国の安価な衣料品に対する米国需要の高まりが、米国の綿に対する中国需要を増やすという連鎖だ」というのです。これは農業と繊維産業という最も関連性の強い産業連関において、国境を越えた農業国際分業と「新たなグローバル産業」連関の形成であるとして、著者はそこにグローバリゼーションのもつ基本的性格のひとつを見出しているようです。
そのうえで、著者が、上海の縫製工場で生産される「メイド・イン・チャイナ」Tシャツをめぐって議論するのが、「底辺へ向かう競争」です。「底辺へ向かう競争」とは、アラン・トネルソン著の『底辺へ向かう競争』によるものですが、トネルソンは同書で、国際競争によって賃金と労働条件に下方圧力が加わるなかで、中国の巨大な「余剰」労働力が安いTシャツを過酷な条件と低賃金で生産することを可能にし、それが世界中の労働者を危機にさらしていると弾劾しています。このトネルソンの主張を踏まえて、リボリも、「今日、米国が綿の世界市場に君臨するのと同じく、中国は世界の繊維・衣料品産業に君臨する」が、ところが、繊維や衣料品産業の首位は、底辺へ向かう競争が苛烈なためにすぐに入れ替わってしまうために、中国のトップの座は米国の綿生産者の覇権とは異なって、それほど長続きするものではないだろう。ただし、南アフリカのアパルトヘイトにも似た中国の農村戸籍制度が残る限り、大勢の従順な若い農村女性の供給が保証されており、「当面、中国は、底辺への競争をリードし続けるだろう」とします。
そのうえで、リボリは以下のような視点を提示します。つまり、かつての日本を含む女工同様、現代中国の繊維労働者もまた、低賃金、長時間労働、粗末な作業環境に置かれている。それでもそれは「農村での暮らしよりずっとまし」であって、「父や兄に従わされる田舎では決して味わえない自由が欲しくて、また両親の言いなりに生きるのではなく自分の一生を自分で決めたくて工場へ来ていた」のであって、「皮肉なことに、若い女性を拘束するための労働慣行、作業ノルマ等々は、いずれも彼女たちを経済的自由と自立へ導くための仕組みの一部でもある」ことに著者は注意を向けるのです。かつてのイギリス産業革命の最も偉大な遺産は女性解放であったとする歴史経済学者アイビー・ピンチュベックの理論に導かれて、工場労働それ自体が女工たちに選択肢を与えることになること、それが彼女たちの受身の姿勢を変えさせ、立ち上がって経営者に歯向かい、しだいに創造性、決断力、チームワークを必要とする繊維産業レベルを超えた発展産業にふさわしい労働者になっていくというのです。
「底辺への競争に脱落した国々は、今では世界有数の経済大国だ。だがいずれの国においても、都市化、工業化とそれに伴う経済の多様化や、農村女性の経済的、社会的開放をもたらすきっかけは、綿工場をはじめとする搾取工場だった。」とも指摘します。
そして、著者は、WTOでの「グローバル労働基準」の議論や、ILOの底辺への競争を抑制しようとする「中核的労働基準」の承認など、「底辺への競争のルールづくり」の意義を否定しないものの、「工場生活を経験することで従順さから脱皮した彼らは、決起して経営者に立ち向かう。そうして自分たちや後に続く労働者のために底辺を引き上げてきた」労働者自身に注目するのです。
ひるがえっていま冷凍ギョーザ中毒事件で問題になっている「メイド・イン・チャイナ」食品をどうみるべきでしょうか。日系の商社や食品加工企業の進出による中国での冷凍食品製造は、日本国内での低価格加工原料調達の困難さ、低賃金で働く労働者確保の困難さ(労働市場の脅威)が、ギョーザのように衣料品産業と同様ないしそれ以上の労働集約的加工品だからこその、「底辺への競争」のもたらしたものであるということでしょう。低温管理された加工場でギョーザを包む長時間単純作業は想像以上に過酷なはずです。そして、それはリボリの言うところに従えば、農村女性の経済的、社会的解放をもたらすきっかけではありましょう。しかし、いま「底辺への競争」のトップに立っている中国に、Tシャツの品質基準はともかくも、食品についての日本基準の安全・安心を要求することが、そもそも非現実的であることを思い知るべきなのでしょう。