◆肥満社会の克服
この4月に特定検診制度(メタボリックシンドローム―内臓脂肪症候群―の概念を応用しての糖尿病などの生活習慣病に関する健康診査)が始まりました。また05年に食育基本法が制定され、「食育」への関心を広げるためもあってか、農水省・厚労省合作の「食事バランスガイド」を目にすることが多くなりました。
それは、何をどれだけ食べたらよいかを主に料理で示す方式で、上からより多くの摂取が望まれる主食、主菜、副菜の順に重ね、その下に並列に牛乳・乳製品と果物を位置づけた5区分のコマ(独楽)型です。食事療法による摂取カロリーの適正化と脂肪燃焼を促す運動療法で生活習慣を改善することがめざされるので、回転すなわち運動しなければ倒れるという不安定なコマに託して国民へのメッセージを伝えようというものです。不安定なコマ型とは相当に意地悪な人の思い付きでしょう。
いずれにしろ、わが国では摂取カロリー適正化と運動の必要性を啓蒙することが何らかの圧力にさらされることはありません。それこそ無邪気に政府も栄養学者も医師も公然と語れます。ここでは、食料自給率39%と格差社会化・貧困の広がりもとで、この「食事バランスガイド」の実現が容易なことではないことについてはふれません。問題にしたいのは、国民の食生活や栄養問題に早くから取り組んできたアメリカでは、肥満社会の克服はわが国におけるほど牧歌的ではないということです。
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ここで取り上げるのは、ニューヨーク大学教育学部の栄養学教授マリオン・ネスルの『フード・ポリティクス・肥満社会と食品産業』(三宅真季子・鈴木眞理子訳、新曜社、2005年刊)です。原著の副題は、「食品産業は栄養と健康をどのように支配するか」です。
彼女によれば、アメリカにおける連邦政府の食生活改善についての国民への助言は、「もっと食べよう」という栄養の欠乏の予防をめざすものであった1960年代まで(農務省の低所得者への食品購入援助クーポン「フードスタンプ制度」が始まったのも60年代)から、70年代には慢性病の予防のために「食べる量を減らそう」に大きく舵を切るものになりました。立役者となったのは、ジョージ・マクガバン上院議員(民主党)が委員長であった「栄養と人間のニーズに関する特別委員会」でした。この委員会が77年に発表した「わが国の食生活の目標」は、炭水化物によるカロリー摂取を55〜60%に増やす一方、脂肪をカロリーの30%に減らすなど、全体として食べる量を減らすべきだとしました。
興味深いのは、この「食べる量を減らす」という提言が大騒ぎを引き起こしたことです。すでに食品の過剰供給と激しい競争下にあった食品業界が激しく反発したのです。その後の、例えば80年の「アメリカ人のための食生活ガイドライン」(農務省と保健福祉省)や92年の「食品ガイド・ピラミッド」(農務省)など、何よりも脂肪の摂取減を目的に肉類の消費を減らすことを啓蒙したい連邦政府の活動は、ことごとく食品業界の激しい抵抗に遭います。農務省にとってやっかいであったのは、「農務省の二つの責務、すなわち農業を保護する責務と、食生活と健康について国民に助言を与えるという責務が利害の衝突を生み出した」ことにありました。世界一の農業生産力と企業的農業、アグリビジネス多国籍企業が食品産業を押えるアメリカならでの悩み、悲劇でしょう。ネスル女史は、「この問題は、食品産業界の利益との結びつきが小さい機関に農務省の教育機能が移されるまで解決しないだろう」とみています。
◆業界の抵抗
食品業界が抵抗した問題の中心は、「食べる量を減らそう」という政府の助言のポイントが、脂肪の取りすぎの原因である食肉や、典型的「ジャンクフード」(カロリーが高い一方で栄養的価値が極微の食品)であるソフトドリンクの消費を減らすことにあり、食品ガイド・ピラミッドが「食物の選択が序列的でなければならず、一部の食品群が他の食品群より望ましいということ」を明確に示したことにありました。
◆食の企業支配
著者は、アメリカにおける食生活改善(健康を促進する食生活)の基本問題が、「植物性の食品をもっとたくさん食べて、動物性の食品と加工食品を減らそう」ということにあり、食生活の助言はこの50年間基本的に変わっていないのに、国民の多くが混乱させられているのは、連邦政府が業界の圧力に屈して、「もっと食べる量を減らそう」というメッセージを婉曲にごまかしたガイドラインを作ってきたことにあるとします。その証拠というべきでしょうか、原著が出版された02年以降の最新の「食生活ガイド・ピラミッド」は05年版「食生活ガイド・マイピラミッド」ですが、そこでは食品群を横割りにし階層的序列を明確にしていたピラミッドが消されて、食品群を縦割りにして階層的序列を見えなくしたピラミッドとは名ばかりのものに変えられています。
本書のすごさは、食品業界が栄養学の専門家を味方につけたり、大学の学科を買収したり(カリフォルニア大学バークレー校の植物・微生物学科とスイスの製薬多国籍企業ノバルティス社の関係がでてきます)、名誉毀損で訴えるなど強硬手段をとったり、子どもへのテレビ広告、学校給食事業の企業による買収や学校でのソフトドリンク販売権獲得競争、サプリメント業界の規制緩和要求など、今日のアメリカにおける食をめぐる企業支配の実態を赤裸々に暴露していることです。
「食べ物の選択の社会環境を変化させよう」という著者の主張は明確です。「食品会社が私たちに与えている影響を忘れてはならない」のであって、食は個人の自由な選択の問題だとして、「食生活ガイドラインを守るよう国民を強制することは、実行不可能な全体主義的アプローチ」だと攻撃する業界に対抗して、一部の食品群の摂取を制限したり、ジャンクフードを学校から追放したり、食品のラベル表示をもっと明確にしたりすることを求めます。そして彼女が呼びかけるのは、「食の選択の倫理」であって、健康的な食生活を選ぶこと、そのように人々に助言することは善い行いであり、「食の倫理的規範」にかなっているということです。栄養学者のガッソウとクランシーの主張である「資源集約的で、カロリーが高く、栄養価が低い多数の食品を、それが必要でなければ買う余裕もない人々や、広告と教育の違いを理解できない子どもに販売することは食品会社にとって倫理的か。平均的な食べ物が人々の口に入る前に何千キロも旅するような『季節も地域もない』食生活を促進するのは、倫理的にどのような意味をもつだろうか。そうした食生活は、自然の資源を無駄にし、農薬、エネルギー集約的な肥料、防腐剤、ホルモン剤を大々的に使うことを必要とし、発展途上国の人々に自分たちのためではなく輸出するために食料を生産させる。……しかしわれわれは、消費者が食品選択の手助けを必要としていることも認識しなければならない。食品業界のどこかに経済的な破滅を引き起こすことなしに、より良い食生活を選ぶ手助けをする方法は存在しない」を肯定的に引用しています。そして最後に、公共政策や企業政策では、(1)「食べる量を減らし、もっと体を動かそう」という大規模全国キャンペーンなど教育分野、食品のラベル表示の改善・広告制限、医療と訓練、税制(ソフトドリンクなどジャンクフードに地方税や連邦税を賦課して、食生活改善運動の資金にする)などを変更すべきことを提案し、さらにわれわれは一人ひとりが「毎日の食による意志表示」をすべきであるとします。税制では、ソフトドリンクなどジャンクフードに地方税や連邦税を賦課して、食生活改善運動の資金にすべきだとする提案には、思わず拍手したくなりました。国際的なスローフード運動も著者は評価しています。
著者ネスル女史の勇気ある発言に感銘を受けるとともに、食生活改善をめざす研究者の発言や運動がこれほどの勇気を必要とするアメリカの、「企業支配国家」としての実像を今一度思い知らされたというのが私の率直な感想です。